綱吉の入浴時間が長くなったと、沢田家ではもっぱらの噂である。確かに以前は、特に、リボーンが住み込むより前は、カラスの行水もいいところ、清潔を重んじる日本の文明社会の一員として最低限、風呂を使っているに過ぎなかった。それが今では、
「あら?ツナ、今頃上がったの?」
 ほかほかと湯気を立てて自室へ戻る綱吉を、目を丸くして奈々が見遣る。
「そうだけど、」
 ぶっきらぼうに答える綱吉は視線をそらして、別にいいでしょ、ほっといてよ、とでも言いたげだ。
「今日はまた長かったのねぇ。じゃあ母さんも入っちゃおうっと。まだ追い焚きしなくてもあったかいわよね」
 沢田家ではまず、日中から家にいるビアンキとリボーンが早めに入浴し、次は子供たち、面倒を見るため重なって綱吉が入って、働き者の奈々は一番最後だ。子供たちが髪を洗ったりするのを手伝ってやって、最後は一緒に上がってくることの多かった綱吉が、風呂上りと着替えはビアンキやフゥ太にまかせて、ゆっくりと一人で浸かるようになったのは、ここ何ヶ月かのこと。今日だって、子供たちがわいわいと脱衣所から出てきてから、中学生男子の入浴時間としては、じゅうぶん過ぎる時間が経っている。思春期の息子の反抗的な態度など大して気にも留めず、ぱたぱたと風呂へ向かう奈々に背を向けて、綱吉は首にかけたタオルでまだ水気の残る耳の中をぐりぐりと拭った。

 まず髪を洗う。奈々に言われずとも自主的に気をつけるようになった、滑らかに整えた短い爪の指先を立てて、しっかりと頭皮をこする。頭頂部から、こめかみ、えりあしも忘れず隅々まで。ごわごわの髪はちくちくと、むずがゆく手指をつっつくけれど、ぐっとこらえて、丁寧に。髪は手ぐしでよく梳いて、ランボほどではないにしろ、天然のトラップになってしまっているそこに、ゴミや埃、抜け毛も、残さないようにしごき落とす。よく泡を流して、次は身体。せっけんをこすりつけたあかすりをもこもこと泡立てて、指先から、手首、肉が少ないせいでちょっと飛び出しすぎの肘の骨もくるくると、二の腕の裏側、肩、鎖骨のくぼみも忘れずに、うなじをこすって、以前はそう、よく洗い忘れて奈々に注意されていた耳の裏側も、ペンの先ほどだって洗い残しのないように、きちっと洗う。へその中だって念入りに、脚の間はもちろんのこと、膝裏、足指の股、羊のようにもこもこと泡をまとって、洗い残しはないかと点検する。最後にもう一度せっけんを泡立て、もう14だというのにいつまでもにきびもない、ちっとも精悍にならない顔をごしごしと洗って、頭からお湯をかぶれば、やっと満足する。

 奈々は「ツナもお年頃なのねー」と笑っているし、ビアンキは「清潔さは良い男の条件のひとつよ」と訳知り顔で、ランボやイーピンは真似して長風呂をしようとしては、真っ赤な顔でふらふらと上がっていく。フゥ太は「風呂好きマフィアランキング10位以内も目の前だよ」と、有用性にはいささか疑問の残る情報を嬉しそうに差し出してくる。なにやら、綱吉の長風呂事情に感づいているらしいリボーン先生は、にやにやと唇の端を吊り上げるだけだ。

「雲雀さん、」
 午後の光が射す応接室、綱吉はたった一人の名前を呼ぶ。返事はなくても腕が伸びてきて、もつれ込むように陽だまりの床へ二人で座る。くすくすと、控えめでも幸せな笑い声が光の中に満ちる。指を絡めて手をつなぐ。
「ひばりさん」
 他に言葉は思いつかないし、それ以外を舌に乗せる必要などないと思える。綱吉の声に雲雀は、満ち足りた子供のように無邪気に笑って、頬をすり寄せる。せっけんで綺麗に洗った頬。ぎゅっと抱きしめられて、鼻先がつんつんの茶髪に埋められる。ぼさぼさだけれど清潔な髪は、日光を吸ってふくらんでいる。
「干した布団みたいなにおい。いいにおい」
 猫の仔のようにじゃれあって、雲雀は綱吉の身体のあちこちに頬をよせ、顔を埋める。
「んん、」
 外耳を唇で挟まれる。ぺろりと舐められる。綱吉も手を伸ばして雲雀に触れる。目の前にある肩、そこからたどって、首、急所の喉仏に指を這わせても、雲雀はされるがままに意識を弛緩させていることに、途方もない幸福を感じる。罪のないいたずらをあちこちに仕掛けていれば、まだ子供じみた手はついに雲雀に捕らえられて、まるでおいしいものであるかのように、指を一本一本しゃぶられる。丁寧に整えた爪は短く丸く、獣のような人の柔らかな咥内を傷つけない。皮膚の薄い指の間の部分にねっとりと舌を這わされて、ぞくぞくと背筋を震わせる。捕らえられていない方の手で肩にかかった学ランを掴めば、剥ぎ取る許しは目線で与えられ、雲雀を覆う鎧を片手で不器用にはがして、綱吉はすぐにそれを背に床に寝転がることになるのだ。
「すべすべ。でも鳥肌立ってる。寒い?」
 床に仰向けになった綱吉のシャツのボタンをひとつひとつ外し、さらされた肌に頬を寄せて鼻先を押し付け、唇で触れる雲雀の、頭を抱え込むようにそっと両手を伸ばす。さんざん吸い付かれて敏感になった指の股を、硬い黒髪がさらさらと滑っていって、綱吉の肌をますます粟立たせる。雲雀が「ねえ寒いの?」と少し笑って重ねて訊く。ゆうべ中までよく洗ったへそを舌先でつつかれて、ぴくぴくとなけなしの腹筋が痙攣するように動く。綱吉は口を開いて、けれど、少し意地悪な雲雀の質問には答えなかった。
「オレ、このごろ、雲雀さんに触ってもらうことばかり考えてるんです、いつも」
 つまりそれが、綱吉の入浴時間が長くなった理由だ。
「どんなことも、雲雀さんとこうやっていやらしいことをするのに、結びつけているんです」
 綱吉のどこもかしこも口に入れたがる雲雀が不快な思いをしないように、綺麗に。風呂だけではなく、応接室で雲雀と唇を合わせる機会があるのじゃないかと思えば、訪ねる何時間か前からは彼の嫌う添加物の味がする駄菓子やジャンクフードを摂らなかったり。小さな切り傷や擦り傷は、雲雀に見つかれば舐められるのが常であるから、洗浄するだけにとどめて口に入れば苦い消毒液はつけない。爪は短く、ぎゅっと抱きついた時に、雲雀の肌を引っかいてしまわないように。
「いつでも、この時間のことばっか考えてる」
 たいそう恥ずかしいはずのことを告白する、綱吉の声は平坦だ。世間一般の常識ではそれが恥ずかしがるべきことだと思うのに、実際にはちっとも羞恥を抱けない。やわらかな冬の陽射しをとりこんだ綱吉の大きな目がきらきらと光って、緩慢なまばたきをしながら雲雀を映し出す。深く澄んだ池を水面から覗き込むように雲雀が綱吉の瞳をじっと見て、それから近づいて目を閉じないまま唇が触れ合った。
「僕も同じ、そう」
 息が触れ合う距離で、やはり平坦に雲雀が言って、ふと顔を上げる。視線の先にあるのは、黒い革のソファ、今は、暖かそうなブランケットで覆われている。雲雀がこの応接室のあるじとなってから今まで、あのソファに覆いがかけられたことなどない。けれど、これからの寒くなる季節、のっぺりとした革生地の上で綱吉の服を脱がせたら、肌に触れる滑らかな牛革の感触は冷たいのではないかと、見回りに行った商店街であのウール地を見かけた途端、そう思ったのだ。
「四六時中、君をこの部屋に呼んで、裸にすることばっかり考えてる」
 視線は絡み合ったまま、綱吉が手探りで、雲雀のシャツのボタンを外せば、寒い、と嬉しそうに笑って、雲雀は綱吉を押し潰すように上から被さって抱きついた。
「君のことばかり考えすぎて、そのうち君になっちゃうかも」
 擦り付けられる頬は、ついさっきまでは、雲雀の方が少しだけ体温が低かったが、今はもう綱吉の肌になじんでいる。
「じゃあ、オレは雲雀さんになっちゃうんですか?ずっと雲雀さんのことばかり考えてるから」
 雲雀の背に回して、背骨の凹凸を数えたり、肩甲骨のくぼみを辿ったりしている綱吉の手も、体温は溶け合って境界は曖昧だ。
「僕が君になっても、君が僕になるなら、なにも問題ないね」
「…………そうなのかな?……ああ、うん、はい、そうですね」
 熱く濡れた粘膜で触れ合っていれば、身体も、思考も、どこまでが自分でどこまでが彼かなんて、わからなくてもいいことだ。

 お、ヒバリ、と山本が言う。珍しく部活のない放課後、購買のジュースを買って、獄寺と、三人でだらだらと喋って過ごす。もたれかかった窓の下、校庭を、下校時の取締りをする風紀委員がうろうろしている。その中に、雲雀もいる。寒空の下で、真っ白のシャツが光り、しっかりと襟のたった学ランがたなびいて、さらさらの髪が風に揺れている。鋭い横顔は清潔で、並中の秩序をつかさどる、風紀、規則を体現したように潔癖だ。
「声かけねーの?」
「まさか、」
 山本の半ばからかいのような問いかけを、軽く否定する。まさか、そんなことはしないけれど。やましいことなど知りません、という顔で学内を闊歩している雲雀の姿を窓から見下ろす。
「……ツナぁ、エロい顔してっぞー、思い出し笑い」
「てめー、十代目に失礼なこと言ってんじゃねーよ」
 ふ、とわずかに笑みがこぼれたのを、目ざとく山本に見咎められて、へへ、と照れ笑いでごまかす。

 並中の秩序そのもののように、硬い空気を纏って冬の校庭を颯爽と歩く雲雀の頭の中は、綱吉との時間のことでいっぱいなのだと知っている。どんな些細な行動だって、二人で肌を触れ合わせること、その時に都合の良いように、と考えてしているのだ、綱吉がそうであるのと同じように。最近、雲雀が、顔に傷がつくのを嫌がるようになった、という噂がある。雲雀恭弥もお年頃、もしくは、いきなりナルシシズムに目覚めたのか、と揶揄する声もある。けれどもちろん真相はそんなことではなくって、綱吉の身体に頬をすり寄せるとき、顔に傷があっては肌の感触を思うように愉しめないからなのだ。

 校庭を歩いていた雲雀がふと顔を上げた。まるで綱吉がここから見ていたことを知っていたかのように、迷わず視線をこちらへ向ける。一瞬だけ視線が絡んで、雲雀は唇の端を上げるだけで笑った。その顔は、ついさっき山本に「エロい顔」と言われた綱吉の表情にそっくりだったのだけれど、それは綱吉も雲雀も知らないことだった。






2010年12月10日

似た者夫婦の完成まであと数年。
(2011年3月29日)