身の内をめぐる獣の血潮がうずまいて、眠れない夜がある。
雲雀はいらいらと爪を咬む。右の親指。がち、と引きちぎって、自分の血の臭いがすれば、もう足は闇の中へ駆け出している。
行き過ぎる車のヘッドライト、点滅するネオンサイン、薄汚れた水銀灯、鈍い光に照りかえるトンファーは、雲雀の爪だ。牙だ。目にした者は、ただ、そのあぎとに咬まれるより他にない。
繁華街は、血に飢えた雲雀の狩場だ。薬におぼれた若者の群れを咬み殺す。春を売る若い蝶に群がる醜い塊を咬み殺す。行く手をふさぐがいい、この力に刃向かうがいい、雲雀に注ぐ返り血が増えるだけだ。
咬み殺しても咬み殺しても、足りないと獣が叫ぶ。獲物を求めてこの身は逸る。
咬み千切る、なぎ倒す、突き通す、押し潰す、暴れるほど、凶暴な衝動はとどまることを知らず、雲雀は夜に向かって咆哮する。
息を切らして、駆け続けた足が止まった。
見覚えのある家並み。見上げた深夜の窓は、闇に閉ざされている。沢田の部屋。あの部屋の主は、寝静まっている。
雲雀は汗にぬめるトンファーを握りなおした。知っている。あの窓は開いている……雲雀のために。寝穢い彼は、いつも深夜の訪問に気づかず、朝になってから、あれっ、いつ来たんですか、なんて言うのだ。のんきに。
いらいらと爪を咬む。ぎざぎざに咬みちぎられた爪が、唇の皮膚をひっかき破る。
沢田は雲雀の訪問に気づかない。訪問したのが雲雀でなくとも気づかない。たとえば、獄寺隼人や、山本武や、あのいまいましい跳ね馬が、深夜に布団にもぐっていったって、朝になってから、あれっ、いつ来たんですか、なんて言うのだ。のんきに。
衝動にまかせて、屋根に飛び乗った。窓は開いている。危機管理ということを教えてやろうか。寝ている間に、口にトンファーでも突っ込んで、縛り付けて、ぐちゃぐちゃに犯してやったら、少しは用心深くなるだろうか。
ガラスに手を掛けて横に引けば、やはり簡単に開いてみせる。苛立ちのまま、雲雀は土足で踏み込む。
菓子、ゲーム、漫画、平和で雑多なあれこれで、散らかった室内は甘い匂いがして、目だけをぎらぎら光らせ、闇に溶けて駆けていたはずの獣を、場違いに浮かび上がらせた。雲雀は立ち尽くした。アスファルトには吸い込まれていった荒い息が、この部屋ではやけに大きく響いて、ぎくりとした。
「…………ひばり、さん?」
ああ。
どうして、こんな時にだけ。
開けっ放しの窓から街灯の明りが差し込む、ぼんやりと薄明るい部屋の中で、ぎらつく雲雀の目と、眠そうでも確かに開いている沢田の目が、ひたりと合った。青白く沈む寒色の闇を写して、深い色の瞳が、眠ってしまいそうに何度か瞬きする。そうして、布団の端が、誘うように持ち上がる。
「もう、よるですよ。ねましょう、ひばりさん。」
ぼとり、と、トンファーが、獣の爪と、牙が、ジュースの染みがついたカーペットの上に、落ちる。
内側から開けられた、布団のわずかな隙間に、吸い込まれるようにふらふらと、雲雀が近づく。トンファーに続いて、ばさりと学ランが、ごろりとローファーが、カーペットの上に落とされる。
いくら寝ぼけていたって、雲雀の、汗と、血と、埃にまみれた、未だ衝動の残り火を灯して熱い身体に気づかぬわけがあるまいに。沢田は、ベッドへ上がりこんだ、自分を持て余して途方に暮れる獣を、その薄い胸へ抱え込んだ。
「……ねーんねの おーさとは よーいおーさーとー……」
とん、とん、と背中を叩かれる。沢田は、雲雀を、この家の子供たちと間違えているのではないのだろうか、と思いながらも、先ほどまでは背筋をぞわぞわと不快にさせていた苛立ちが、もうかけらも浮かんでこない。
「……えーだから えーだへ と とーびとーびーにー、」
顔をぎゅっと押し付けると、子供っぽいロケットの柄のパジャマに、汗と血と埃が吸い込まれた。雲雀はぷちぷちとボタンを外して、パジャマで拭われて綺麗になった顔を、沢田の素肌の胸に直接くっつけた。
風呂上りの肌はさらさらして、バスクリンの懐かしいような匂いがする。すぅ、と吸い込むと、闇を睨んで見開かれていたはずの目は、急に重くなったまぶたに覆い隠され、あとは、耳だけが働き、眠りの中に片足を突っ込んだままの沢田の穏やかな鼓動と、頬の向こうにある肺から、あばらを振動させて直接響いてくる、上手くもない子守唄を拾っている。
「ひーばり なーんかも なーいて まーすー……」
変な替え歌をしなくてもいいよ、と唇だけで笑ったもうその次には、ことん、と雲雀は眠りに落ちていた。
夜の獣の姿は消えて、カーテンの向こうの巣の中で眠る、二羽の小鳥がいるばかり。
2009年6月8日
沢田さんは翌朝「あれっ、いつ来たんですか」といって雲雀さんに怒られます。
一緒に朝風呂で仲直り。
「ねんねのお里」中村雨紅/杉山長谷夫
「ネスト」竹久夢二
(2009年8月16日)
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