さわだ、と濡れた声がした。揺れるカーテンの向こう、閉めていたはずの窓が開いている。ふわっと膨らんだ布の間から、ちらりと黒が見えた。学ランだ。
「…………、」
名前を呼ばれただけなのに、綱吉は総毛だった。嫌な予感しかしない。甘えた声だ。ねだる声。心臓がどくどくとうるさくなる。春の風になぶられるカーテンの影に、ちらちらと見え隠れする人影が、ホラー映画のようだ、と綱吉はわりと酷い感想を持った。踊る布の端を、白い手が掴んで、引いた。
「しよう。」
何を、と問えば墓穴を掘ることになると、綱吉はよく知っていた。ただ、問いかけでもなく、誘ったわけでもない、この「しよう」は断定である、ということもよく知っていたので、綱吉がどう思おうと、遅かれ早かれ、それを「する」ことになるのだろうということもわかっていた。しなだれかかるように窓枠にもたれた、雲雀が発している、どぎつい桃色の空気にあてられて、頬を染める。ただ、がち、とかみ合った、目線を外したら最後、という思いもあって、うつむくことはしない。怖くてできない。
「ひば、」
震える、乾いた、上唇を少し舐めて、綱吉が、夕暮れの空を背景にたたずむ黒猫の名を呼ぼうとした時、彼はふらり、と立ち上がって、おぼつかない足取りで近づいてきた。全く雲雀らしくない、酔っ払いのような動きで、逃げるチャンスなどいくらでもあったのに、綱吉は、逃げるどころか、1cmだって動くことはできなかった。そのまま抱きつかれて、学ラン越しでもわかる、火照った身体をぐいぐいと押し付けられながら、床に転がった。はぁ、と熱い息が耳元にかかって、綱吉は震えた。
「あっつい、」
ぽや、と桜色に染まった頬で、うわごとのように雲雀が呟く。それならば、離れればいいのにとか、上着を脱げばいいのにとか、色々な思いが綱吉の脳裏をかすめたけれど、結局、出来たのは、ひばりさん、ひばりさん、ばかみたいに名前を呼ぶことだけだった。
「ねぇ、しようよ」
言葉は問いかけの形をしていたが、捕まえた綱吉を逃がさないように、雲雀が肩に咬みつく。綱吉ののどは、ひぅ、と呼吸と悲鳴の中間みたいな音で鳴る。
「あ、ま、っ」
ごそごそと身体をまさぐられて、思わず制止の声をあげようとした綱吉は、腰の辺りに押し当てられた硬さに、ぎくりとして声を飲み込んだ。熱い、熱い、咬まれた肩から、押し付けられた腰から、雲雀の熱さに感染するようだ。
Tシャツのすそから、雲雀の手とは思えないほど、熱く乾いた手のひらが這い込んできて、わき腹から鎖骨までを乱暴に撫で上げる。ぷつん、と引っかかった胸を、何度も擦るように触れられて、綱吉の声も、もう濡れたようになってくる。
「やぁ、そこ、んん、やめ」
か、と口を開いて、肩から離れた雲雀が、綱吉の顔を見る。目が合う。らんらんと光っている。繋がった視線から、熱が流れ込んでくる。
(くわれる、)
ついに綱吉が、彼を味わおうと伸ばされる舌を、薄く唇を開いて受け入れようとした、その時、
「うるせえ!」
ずがん、と、もう5cmもないほどに近づいていた二人の顔のその間を、弾丸が通り抜けていって、向こうの床にめり込んだ。ぱらぱらと綱吉の頬に何かが落ちる。かすめた茶と黒の髪の幾筋かだった。一気に青褪める。
「危……っ」
はくはくと、口を開いたり閉じたりしかできない綱吉をよそに、雲雀は、少し正気に戻った顔で、それでも憤然と職業殺し屋の赤ん坊に抗議する。
「ちょっと、邪魔しないでよ、」
「お前らこそ、俺のシエスタを邪魔しやがって、にゃあにゃあにゃあにゃあ、メス猫みたいにサカってんじゃねえ、」
見れば、確かに、リボーンはねまきを着て、おそろいのナイトキャップまでかぶっている。雲雀がこの部屋に乱入する前から、ハンモックに居たのだった。
「あああああ、」
雲雀の放つ桃色の空気にあてられて、すっかりそんなことは頭から飛んでいた綱吉が、真っ赤な顔を両手で覆って悶絶する。ついさっきあげてしまった、自分の声。まぎれもない嬌声を、家庭教師に聞かれてしまったのだ。
「……起こして、悪かったね、」
むう、と不満そうに唇を曲げながらも雲雀が、春の日の、赤ん坊ののどかなシエスタを、中断させてしまったのは自分だと認める。リボーン相手でなければあり得ないことだ。まだ顔を覆ったまま、もうここから逃げ出したい、この熱を逃すのに、自主的にランニングでもしてこようか、と家庭教師が聞いたら機嫌を直しそうなことを考えている綱吉は置いてけぼりで、雲雀とリボーンは一瞬で話しをつける。
「よそでやれ。」
「そうする。」
雲雀はふらりと立ち上がる――綱吉を小脇に抱えて、
「うぇ!?」
目を閉じていた綱吉は、状況についていけず、ろくな抵抗もしないうち、持ち上げられてしまう。
「え、ちょ、」
「邪魔したね、」
そのまま雲雀は、窓枠に足をかけて一気に飛んだ。目を見開いて息を呑んだ綱吉の視界に、近所の家のそこかしこ、淡く色づいた花を霞のように揺らめかせる、満開の桜が飛び込んでくる。
(はるらんまん、)
それじゃあ仕方ない、諦念と許容で半々の綱吉が、親に首をくわえられた猫の仔のようにだらりと力を抜くと、アスファルトを駆ける雲雀の足は速くなった。頬をかすめて、ふわりと花弁が舞った。
2009年7月5日
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