六道骸名義の、スイス銀行の口座は、復讐者の名において、凍結されている。

 もちろん、骸の資産がそれだけのはずもなく、単純に金銭だけ見ても、偽名で、または密かな協力者のもとに、世界中の金融機関に分散させて、いくらかの―― 一般人の常識で言えば、それだって桁外れの ――預金があったが、骸は、留守を預かる千種に、それらを切り崩すことを禁じた。

 彼らには苦しい生活を強いることになるが、骸の脱獄と、その後の行動において、蓄えは少しでも多い方がいい。そのくらいで骸にはついていけないと言うのなら、それまでだ。

 そう思っていた。

 クロームが白い頬を染めて、摘んだばかりのすみれの花束に、唇を寄せるように、うつむいて、微笑んでいる。花色は白から紫の濃淡が、彩りよく揃っていて、花首をうつむけて咲く楚々とした風情は、まるでクローム本人のようで、控えめで愛らしい。骸は目尻を下げた。

「僕もまだ、捨てたもんじゃあ、ないですねぇ……」

 愛らしいものを、愛らしいと思う、そんな心が残っていたのだ。

「?……何て言ったんですか?骸様」

 すみれの香りと、唇をくすぐる花弁の感触を楽しんでいたクロームが、呟きを聞きつけて、はっとして顔を上げる。

「何でもありませんよ。ただ、クロームにはすみれの花が似合っていて可愛らしい、と言ったんです。」

 にっこり笑って、髪を撫でてやると、骸のいとし子は、頬にぱっと朱を散らした。

「おや、今度は、時ならぬ紅葉ですか。」

 少しからかうと、クロームは再びすみれの花束に顔をうずめて、ますます紅くなる。

「クロームはすみれが好きですか?」

 あまりいじめすぎるのも良くないと、出来得る限り優しく、尋ねた骸に、クロームは顔を上げて、まさに、花がほころぶような微笑みを見せた。

「はい!骸様」
「そうですか、それは良いことです。クローム、すみれの」

 花言葉はね、と続けようとした骸の言葉は、クロームの興奮した口調にさえぎられた。

「だってね、すみれって、さっとゆがいて、ご飯に混ぜて、ちょっとお塩を振ると、とってもおいしいんです!見た目もきれいだし、ご飯のかさも増えるし、すみれって本当にすごいのね、骸様!」

 弾むようなクロームのお喋りは、まだ続く。

 もうすぐフキが採れます、アケビの芽もご飯に混ぜるとおいしいんですって、千種が言ってたわ、たんぽぽのサラダって、骸様、食べたことありますか…………

 やがて、朝日に呼ばれるように、クロームは現実へと戻っていったが、幻想の中でも緑豊かな黒曜ランドの敷地の中で、骸は一人、立ち尽くしていた。

「『全米が泣いた』ってこういうことを言うんでしょうか……っ」

 久しぶりに泣いたせいで、オッドアイが両方赤くなった。


「いいですか千種、大垣共立銀行です。そこに、偽名で預金が少しあります。監視されている可能性は低いでしょうが、必ず、今から言う方法で、引き出すんですよ。」

 初夏の風が抜ける黒曜ランドに、久々に、六道骸が降臨した。クロームは身体を貸しているし、犬は夕食に食べられそうな動物を探して外を走り回っている。薄暗い屋内で骸に向かい合っているのは、千種だけだった。床にあぐらをかいて、新聞紙を広げ、近所の無人販売で格安で手に入れたきぬさやが、目に鮮やかな緑で散らばっている。クロームと二人ですじを取っている最中の、骸登場だった。

 ついに何か行動を、と腰を浮かしかけた千種だったが、とうとうと続く骸の指示に、ため息をついて座りなおし、きぬさやのすじ取りを再開しながら、適当に相づちを打っていた。

「まず、米と缶詰を買いなさい。重いでしょうが、犬に気づかれてはいけません。余計なものを欲しがるに決まっている。クロームもあれで、後先考えないところがありますから、できるだけお前一人で事を済ませるのがいい。今まで三人で一日三合、と言ってきましたが、これからは一日四合、動物性たんぱく質も、犬の収獲がないときは、缶詰で補うように。土地はあるんですから、鶏でも飼って、卵を……いやだめですね、犬がじゃれて殺してしまうのがオチだ。どうしたらいいか……」






2009年6月8日

理想が生活に負けるとき。
「すみれの花咲く頃」フランツ・デーレ/白井鐵造
(2009年8月16日)