脱獄した六道骸を、紆余曲折の末に、そのつもりもなかったが復讐者に引渡し、九代目の指令を無事に果たしたのだったが、その代償はなかなかに大きかった。直接、指令を受けた綱吉自身は、いくつかの擦過傷と打撲、そして筋肉痛で済んでしまったというのは、皮肉な話である。

「よ、っと、……いってて、」

 朝が来て、検温が済むと、綱吉は白いシーツから身体を起こした。念のため入院はしているが、綱吉の不調は主に、筋肉痛によるものだから、できるだけ動けと言われている。もちろん、無理をしない範囲で。努力とか修行とか、体育会系精神論とか、そういったものは好みではない綱吉だけれど、全身、ありとあらゆる筋肉が、動かすたびに悲鳴を上げるのは、ただただ辛くて不便なので、はやく治れ、はやく治れ、と念じながら、脚を進めている。それに、病院内をあちこち歩き回るのには、理由もある。

「今日は何買おっかな、」

 ぎしぎしと、きしむ身体を、ぶかっこうに引きずりながら、ゆっくりゆっくり、1階ロビーの売店へ向かう。そこでお土産を買って、入院中のほかの面々を、順に見舞うのである。

 山本、獄寺、フゥ太、ビアンキ、雲雀。初日にこの順で回って以来、7日目の今日まで変更したことはない。それは、気軽に見舞いやすい順であった。親友の山本、そして獄寺、落ち込んではいるが、また沢田家へ来ることを約束してくれたフゥ太、あまり機嫌の良くないビアンキ、…………そして雲雀。


 身体を動かしがてら、みんなのお見舞いに行こう、と入院初日に思い立った綱吉は、はじめ、4人の病室を回った後で、雲雀の病室に見舞いに行くべきか行かざるべきか、たっぷり1時間は悩んだ。ただでさえ、雲雀と病院という組み合わせは、鬼門なのであった。さらに、事実としては、綱吉にまつわる厄介ごとに雲雀が巻き込まれたわけだが、雲雀の認識としてはおそらく、「並盛の秩序を守る」という自分の仕事をしただけなのであって、そこへのこのこと顔を出して、「オレのせいでごめんなさい」なんて言おうものなら、綱吉の入院期間は1ヶ月くらい延長するのではないか。

 悩んで悩んで、ロビーのベンチでうっかり寝かけた綱吉は、もう悩むのも面倒になって、とりあえず様子を見に行くことにした。雲雀がどう思おうと、綱吉の厄介ごとに巻き込んでしまったのは間違いないのだから、見舞いの一つもしないのは、綱吉が落ち着かない。要は、見舞いだと言わなければいいのだ。雲雀は一番の重傷者なのだし、綱吉は動いた方が良いのだから、それを口実にして、パシリでもしよう、と。

 病棟のずいぶんと奥まったところにある、扉からして他とは違う病室をノックすると、驚いたことに雲雀は目を覚ましていて、それどころか、大きな羽根枕(おそらく院長のはからいであろう)を背に身を起こし、文庫本を読んでいた。『人間の手がまだ触れない』、綱吉には内容の想像もつかないタイトルである。

「ヒバリさん、お加減いかがですか、」

 おそるおそる声をかければ、意外なことに、立ってないで座れば、とのお言葉を頂戴した。加減はともかく、機嫌は悪くないらしい。綱吉は、雲雀の気が変わらないうちに急いで、しかし見舞いだと悟られぬように、自分がパシリをする旨を告げた。

「……へぇ、売店まで?行ってくれるの」
「は、ハイ!別に買い物じゃなくても、何か不自由してることありませんか?」

 しかし訊いてから、おそらく雲雀は完全看護であろう、ということに思い至った。彼が放っておかれるはずがない。

「あの、」
「別に困ってることはないけど。じゃあ、牛乳、買って来てくれない、」

 予想外の回答に、綱吉は目を丸くした。

「ぎゅうにゅう、ですか」
「うん。牛乳飲んで、骨を早くくっつけないと」

 子供っぽいことを言った、雲雀の目は真剣だった。それで綱吉の緊張はほぐれた。ずいぶんな時間がかかって牛乳を買ってきた後、各方面から寄せられた見舞いの品を、僕一人じゃ食べきれないから食べていけば、と言われて、出されたロールケーキを頂くことさえした。学校のこと、リボーンのこと、話を振れば、会話もちゃんと成立する。給湯まで完備された病室の隅でケーキ皿とフォークを洗って、退室しようとしたとき、リハビリ代わりなら毎日来るの?、と訊かれた綱吉は、嫌々でなく頷いたのだった。


 そんな見舞いが、7日目である。山本、獄寺、その二人だけでもうお昼になって、フゥ太、ビアンキ、と顔を出せば15時だ。最後に雲雀の病室へと向かう、綱吉の足取りの軽いこと。それは、1週間という時間が、筋肉痛と擦過傷と打撲を、少し癒したことだけが理由ではない。

「こんにちは……?」

 ノックをしても返答がない。手洗いだろうか、不在時でも入って待っていて良いと言われていた綱吉は、そっと扉を開けて中を覗き込んでみる。

(あ、ねてる……)

 音がしないように、そっと扉を閉める。ぺたぺた音をたてないようにスリッパを脱いで、抜き足差し足(筋肉痛の身には堪えた)。まさに、以前のあの悪夢と、同じ状況なのだけれど、今日までの七日間の記憶が、綱吉からあの恐怖を忘れさせている。起こすつもりはないけれど、枕元にメモでも残して行ったら、明日雲雀は何と言うだろうか。寝ている隙に枕元までの侵入を許したことを、悔しがるのではないだろうか。口をへの字に曲げた雲雀の表情を思い浮かべて、綱吉はこっそり笑う。

 何とか枕元までたどり着いた。シーツには、おそらく風紀の、書類が散乱していて、雲雀は半分横向きになったような、変な姿勢で寝ている。目を通しているうちに、眠ってしまったのだろうか。何気なく寝顔を見ると、ちょうど、ぱさ、と、落ちかかった前髪の束が鼻筋の辺りにかかって、雲雀はんん、と顔をしかめた。起きるかと思ったが、むっとした顔のまま、まだ眠っている。

(払ってあげた方がいいかな……起きちゃうかな)

 逡巡して、指先が空をさまよう。もともと、綱吉は、自分のとは違う、雲雀の黒くて真っ直ぐな、風になぶられればさらさらと音でもしそうな髪に、非常な憧れを持っていて、触ったらどんな感触なんだろうか、とは思っていたのである。だが、まさか雲雀にそんなことは頼めない。

(これって実はチャンス?)

 たとえ雲雀が目を覚ましてぶん殴られたとしても、髪には触れるわけである。綱吉は思い切って手を伸ばした。顔にかかっていた毛束を指先に掬い上げる。

(……やっぱりさらさら、)

 ほんの数秒の接触を堪能して、顔にかからないように分けてやる。よし、と思って手を離そうとした瞬間、ふわ、と雲雀の表情が変化した。え、と綱吉は目を見開く。

(ヒバリさん、今、笑っ……)

 動揺した綱吉の指先が、とん、と雲雀の額に触れた。その瞬間、音もなく秒速で伸ばされた手に手首をつかまれて、綱吉は飛び上がった。

「ぎゃあっ!」
「……なんだ、きみか。もうそんなじかん?」

 くあ、とあくびをしながら、もにょもにょと喋って起き上がる雲雀は、綱吉の手を捕らえたままである。

「ゆめをみてた、……なにかいいゆめ、」

 ひとりごとのように言って、くしくしと目を擦る。

「なにしてたの?」

 雲雀は問い詰めるわけでなく、純粋に不思議そうな様子である。

「あの、ヒバリさん眠ってたので、書き置きでもと思ってここまで来たら、前髪がこそばゆそうだったので、余計なお世話、かもしれないんですけ、ど、」
「のけてくれた?……ふぅん、それで夢が、」

 ぶつぶつと呟く雲雀は、まだ、にぎにぎと綱吉の手首をつかんでいる。

「ヒバリさん、あの、手、」
「何?いいじゃない、君も僕の髪の毛、触ったんでしょ」

 言いながら、綱吉の髪に向かって、もう片方の手を伸ばしてくる。

「届かないから、座って、ここ」

 示されたベッドの隅に、ためらっていたら、手首をぐいと引かれたので、綱吉は諦めておとなしく腰掛けた。わしゃわしゃと髪に手を突っ込まれる。綱吉は、自分がチワワか何かになったような気がした。

「……じゃあ、オレも、ヒバリさんの髪の毛、もっと触っていいですか、」
「触りたいんなら、触れば」

 勇気を振り絞った一言に、あっさりと是を返され、おそるおそる手を伸ばす。指に掬い上げて、さらさらと零れ落ちる髪は、まるで雲雀の人格をあらわすように、芯があって、しなやかだ。ふわふわと軽薄な自分の髪を思いやって、綱吉はため息が出る思いだ。

(こんな髪だったら、オレだって、ちゃんと毎朝櫛通すのに、)

 雲雀の頭ばかり見ていた綱吉が、だから、あれ、急に暗くなった、と思った時にはもう、唇に雲雀の歯が立てられていた。

(…………え!?)

 かぷかぷと、数回、甘咬みされる。

「な、なん、あ、ど、どうして、」

 驚天動地の事態に、もともと未発達なきらいのある言語中枢を破壊された綱吉が、あえぐように言うと、顔を赤くした雲雀は目をそらして、だって、とぼそぼそと言った。

「もっと触りたいのに、両手がふさがってたから、」
「べ、つに、く、口で触らなくたって、」
「だって、」

 すっかりだだっこのような口調になった雲雀は、前から触りたいと思ってたところに、急にチャンスが来たから、と言い訳した。

「触りたかったって、どうして、」

 先に髪に触れた自分のことは棚に上げて、動転した綱吉が問いただす。

「君は、弱かったり強かったりよくわかんないし。怖気づいたかと思ってたら、六道骸を倒すし。もしかして、僕とは何か違うもので出来てるんじゃないかと思って、」

 そんなわけはない。

「だけど、口に口で触るって、そんな、そんなのは、」
「だって……だって触りたかったから、」
「どうして、」

 さっきから、同じ問いの繰り返しだ。真っ赤な顔で、動揺のあまり目に涙を溜めている綱吉の手首を、雲雀はまだにぎっている。

「どうしてなんて、わかんない。でも、もう一回触ったら、わかるかも、」

 まったくもって意味がわからない!と思った綱吉は、それなのに、雲雀の前で目を閉じた。近づいてくる雲雀の息遣いを、濡れた唇に感じながら、綱吉は、最初の日に、雲雀が読んでいた文庫本のタイトルを思い出していた。『人間の手がまだ触れない』。






2009年8月16日

たまにはなれそめ話。
タイトルのパロディ元と話の内容は全く関係ありません。すみません。
「人間の手がまだ触れない」ロバート・シェクリィ/稲葉明雄/ハヤカワ文庫
(2009年11月4日)