並盛を発っておよそ十日、南米某国の、とある安アパートの一室に沢田綱吉はいた。色落ちしたジーンズに原色レインボーなボーダーTシャツ、足はサンダル履きという、マフィアのボスにはとうてい見えない(もともと見えないのはさておき)南米ファッションを身にまとい、隣には彼よりもさらに小柄な人影、デニムのタイトミニにまっ黄色のタンクトップ、群青のペディキュアの足にゴムぞうりをひっかけた、クローム髑髏が立っていた。

 二人の前には粗末な、でも大きな3人がけのソファがあって、そこに長身の男が寝かされていた。綱吉がイタリアから連れ出した、六道骸だった。渋る古株を何年もかけて口説き、やっとのことで「十代目の霧の守護者」として牢獄から出してきたのだ。予想はしていたが、骸の全身の筋肉はすっかり萎えていて、動くこともできない。ボンゴレ内部にも彼を危険視している者は多いし、他のファミリーに六道骸開放の情報がまわるのもすぐだろう。羽化したてのとんぼでもあるまい、翅が乾く前に撃ち落されてはたまらないと、綱吉が単独で、ポケットマネーを使い、完全なプライベートの行動として、秘密裏にここまで運び出したのだった。

「やっと落ち着いたなー。クロームも疲れたろ?骸のとこにちょっと座ったら?」

 綱吉も疲れているには違いないのだが、ぷるぷると首を横に振ったクロームに、そう?いいの?と微笑んで首をかしげて、隻眼にかかった髪をそっと払い、頭を撫でる。初めて会ったときから、「ボス」と呼んでくれる、ひとつ年下の小さくて可愛い子の前では、お兄さんぶっていたいのだ。

「もう少し骸が良くなったら、次の移動をしようね。オーストラリアに家を買ってあるんだ。犬と千種は先に行ってもらってる。」
「おうち?」
「……遠慮することはありませんよ、クローム。僕らがマフィアに手を貸そうというんですからね、このくらいで足りると思ったら大間違いですよ。」
「…………結構、元気だな、お前。きっとすぐ回復するよ………………」

 思わず半眼になる綱吉を見て、クロームが小さく笑った。久々の笑顔だった。

「ねぇボス、オーストラリアには、コアラがいるのよね?ボスはコアラ、見たことある?ほんもの。」
「コアラ?うーん、動物園でもないなぁ……」
「骸様は?コアラ抱っこしたことある?カンガルーは?」

 骸の枕元に膝をついてのぞき込み、はしゃぐクロームは、白い肌を淡く桃色に染めて、愛らしい。綱吉には細かいことはよくわからないが、クロームと骸はしょっちゅう「会って」いたという。それでも、実体を持って顔を突き合わせるのは初めての二人だ。あわただしくイタリアを発って、飛行機に乗ってから、クロームは、どこか不思議そうに、ずっと骸をみつめていた。そして、ときどき頬や手に触れ、また離す、ということを繰り返していた。肉を持たないふれあいの中で、この二人にあったのは本当に純粋な好意だ。いま、ふたつの身体に離されて、それぞれ別個の人間として相対したとき、師弟、父娘、兄妹、恋人、その好意がどんな形に向かうのかまったく想像がつかなかった。もしかしたら、骸がクロームの手を離すことがあるかもしれないし、その逆だって不思議はないだろう。ただ、いまのふたりに必要なのは、一緒にいることであるのは間違いない、と綱吉は思った。

(なんて、案外あっさり、来年辺りには結婚とかしちゃったりして……)

 でれでれ、と言いたくなるような、見たこともない優しい顔でクロームの話を聞く骸を見ながら、そこまで考えたところで、綱吉は大事なことを思い出した。

「あぁ、肝心なことを忘れてた!」

 邪魔しないでくださいよ、と言いたげな骸が怖い。今から言うことで、骸がもっと怖くなるのかそうではないのか、そしてクロームがどう思うのか、まったくわからなかったが、綱吉は言うなら今しかないと思った。喜ばれるのかもしれないし、彼らと綱吉の間に溝を作ってしまうかもしれない。けれど、これは、綱吉が、クロームと出会ってすぐの頃からずっと考えていたことで、それをやっと実行できそうなめどがたったのだから、エゴでも何でも、告げたかった。

「あのね、今……結構前からなんだけど、うちの医療班に、再生臓器の研究をさせてるんだ。」

 クロームはきょとんとしていた。骸は、さすがにこれだけで意味がわかったようで、ふん?とでも言うように片眉を上げた。表情筋が随分復活してきているようだ。

「人身売買が蔓延する理由のひとつに、臓器移植があるのは知ってるよね?」

 骸のそばに膝をついたままのクロームのすぐ近くに寄り、視線を合わせるためにしゃがみこんだ綱吉に、まだわけのわかっていなさそうなクロームがこっくりと頷く。綱吉は微笑んで頭を撫でてやる。

「再生臓器の研究が完成したら、わざと、その情報をほかのファミリーに流す。人身売買よりリスクが少なくて、利益も多い臓器移植の方法があれば、マフィアの人身売買も自然に減ると思うんだ。」

 人身売買が減る、という言葉にクロームがにっこりした。素直で、優しい子なのだ。

「それでね、やっと、今年中、というわけにはいかないけど、五年以内には、人間に適用できそうなところへきたんだけど……」

 言葉を切る。この可愛い子を傷つけたくなかった。けれど、やはり、本当は彼女のために始めさせたこのプロジェクトを、自己満足でも、彼女のために実行したかった。

「クローム。クロームに、最初の移植者になって欲しいんだ。」

 隻眼がおおきく見開かれる。ソファの骸は、ただじっと、今は綱吉の方を向いているため自分には背中を向けている、クロームを見つめていた。

「最初は眼球。」

 こぶしで闘うために、ここ何年かで随分と太くなった指先でそっと、眼帯に触れる。

「様子を見て、消化器官。そして、最後に……その、女性機能、の復活。……どうかな?」

 綱吉がどう思っているにしろ、それは、クロームと骸の絆の一部を断ち切る行為に他ならないし、マフィアのボスが、部下に、実験台になれと命令しているのと、変わらなかった。けれど、

「目と内臓……私の?」

 今日も今日とて元気にヘソ出ししている、そのぺったりした白い腹を、クロームが不思議そうに自分で撫でた。

「じょせい……生理くるの?あかちゃんも?」
「うん。クロームが望めば、だけどね。移植前後はしばらく入院だし、リハビリも必要だよ。第1号だから、データもこまかく取らせてもらわなきゃならないし、」
「ほんと?ほんとに?私の目と内臓、ボスがくれるの?」
「……人間はクロームが最初になるんだ。何があるかはわからないよ?」

 綱吉が言えば、クロームはぶんぶんと首を横に振った。目が潤んでいる。

「うれしい、ほんとに、うれしい……!」

 そのまま抱きつかれて、しゃがんでいた綱吉は尻餅をついた。静かに、骸に視線を移せば、そんなに恐々とした様子だったろうか、あきれたように鼻で笑われた。

「クローム本人が、そんなに喜んでいて、僕に言うことはありませんよ。…………………………感謝、します。沢田綱吉、君に。」

 大変に、そう大変に、彼らしくないことに、六道骸は、綱吉の一連の行動に感謝し、また沢田綱吉という人間に、友情めいた感情を抱いた。それを感じ取った綱吉は、素直に感動し、じわじわと喜びがこみ上げてきた。クロームが、臓器が再生するということに、こんなにも喜んでくれるほど、生きたい、という意欲を持っていたことも、本当に嬉しかった。骸が、まだ震える手をゆっくりと差し出してきたので、綱吉の力強いてのひらがそれをしっかりと握り、そしてクロームに触れるところまで導く。顔を上げたクロームが、すん、と鼻をすすって、はにかんだように笑う。

「私、骸様のあかちゃん欲しい」

 綱吉は盛大にむせた。少し赤くなって、もう思春期でもあるまい、こんなことで動揺するなんて恥ずかしいなーと思いながら骸を見やれば、六道をめぐってきた男は耳まで赤かった。意外だった。まるで、ボンゴレ十代目とその霧に守護者にはふさわしくないような、ホームコメディーのような空気が流れ始めた。

 まさにその時、

「そこか沢田綱吉!!」

 どがしゃーん、と大音響とともに扉が破られ、黒い人影が室内に乱入した。音に驚いたクロームがきゃっと言ってもう一度綱吉に抱きつき、綱吉もヒィィ、と悲鳴を上げながらクロームにしがみついた。骸は、入ってきたのが誰なのかすぐにわかったし、本当に危険な、たとえば敵襲なら、目の前のボンゴレ十代目が、情けない悲鳴を上げる前に額に炎を灯すはずなので、さっきのクロームの発言の千分の一も動揺しなかった(もちろん、肉体的に動けないというのもあったが)。

「ひっ、雲雀さんー!?」

 乱入したのは、この暑い国で黒いトレンチコートをなびかせたままの、雲雀恭弥だった。服装だけ見れば、雪の並盛駅で別れたのはついさっきのことのようだったが、なんだか全体的によれよれしていた。

「試験はどうしたんですか!?全科目でAとるんでしょ!」
「地球の裏側で再会して最初に訊くことがそれ!?三日前に終わったよ!」

 雲雀恭弥は大学生だった。入学したときは経済学部と聞いていたが、いつのまにか医学部におり、今の専門はなんなのか綱吉も知らなかった。ただ、綱吉が並盛を発ったあの日が、試験週間の真っ只中であったことは確かだった。

「試験時間終了まで退室できない科目があってね、暇だから色々考えてたらだんだん腹が立ってきたよ……!」
 漫画だったらゴゴゴゴゴ、という効果音が背景に書かれていそうだった。もともと雲雀恭弥が苦手なクローム髑髏は、いつの間にか骸のところまで下がっていたが、骸様は私が守るの、というようにソファをかばっていた。落ち着きなさいかわいいクローム、あの男にはボンゴレしか見えてませんよ、と骸が言うと、少し安心した顔をした。暗雲を背負った雲雀と真正面から対峙している綱吉は、後ろで行なわれているそんな心温まるあれこれに、気づく余裕はなかった。

「なんで僕らが別れなきゃいけないのさ!しかも何、何も言わないと思ったら、理由はそいつら!?」
「えっ別れるなんていやです雲雀さん!捨てないでください!」

 完全にかみ合っていなかった。

「………………なに?」
「えっ……えぇ?」

 眉を寄せた雲雀が、がごん、とトンファーに突き刺さっていたドアを落とした。かなり埃が立って、骸が嫌そうな顔をした。

「君が、僕を、置いていったんじゃないの」
「だって雲雀さん試験週間だったでしょ?メールするって言っといてできなかったのは謝りますけど、そんな怒らなくてもいいじゃないですかぁ……」

 やっぱりどう考えてもかみ合っていなかった。互いに大きな誤解があるのは間違いなさそうだった。雲雀はなんだか頭が痛くなってきた。ちらりと視界に入った骸が、同じく頭の痛そうな顔をしていたのに無性にイラついた。

「何なの。君は、ひとりでイタリアへ行って、しばらく帰らないって、理由も言わずに、」
「骸を連れ出したあと、どのくらいでほとぼりが冷めるか見当つかなかったんですー!雲雀さん機嫌悪いし、骸を出すのがそんなに嫌なのかなって、話もしなかったんじゃないですか!見送りのときも全然俺のこと見てくれなかったし」
「だから!その理由!僕は聞いてないよ!そこのパイナップルが缶から出てくるなんて話はちっとも!」
「そんなはず……!…………え?あれ?えええ!?」

 綱吉はぱか、と口をあけた。雲雀は察しの悪い方ではないので、だんだんと状況がわかってきた。めまいがした。多分、駅でのあの言葉は、『俺が並盛で見る、(今シーズン)最後の雪ですね』だったのだ。あとは、

「……『さようなら』っていうのは?」

 沢田綱吉は別れの挨拶に「さようなら」は使わない。さびしいから嫌なのだ、と以前に聞いたことがあったので、あの台詞に決定的な別れを感じたのだ。

「え、俺、そんなこと言ってないですよ」

 よろよろと立ち上がった綱吉が、雲雀のすぐ目の前に立つ。弱りきった、情けない、ダメツナ顔だった。

「駅で、言ったろ。電車の戸が閉まって、動き出したあと」
「電車……?俺、雲雀さんが顔上げてくれたのが嬉しくて、『こっちむいた』って……そのあと、『あとでまた、メールします』って言ったのは覚えてますけど……」

 全てがわかった。わかってしまった雲雀は、頭を抱えた。「さようなら」と「あとでまた」。母音が似ているから、くちびるの動きが似ていたっておかしくはない。涙が出そうだ。笹川兄風に言うのなら、極限恥ずかしい。

「……あのぅ、俺、ごめんなさい。やっと骸を出せることになって、でも雲雀さん、骸とは色々あるから、言いづらくて……でも、ちゃんと伝わってなくて、雲雀さんにこんなとこまで来させるくらいなら、もっとちゃんと、話せばよかったのに……、ごめんなさい。雲雀さんが試験のうちに、逃げるみたいに出てきちゃって、それも、ごめんなさい。」

 確かに、綱吉がもっとちゃんと、渡伊の理由を話していれば、こんな誤解は生まれなかったろうが、それを聞いた雲雀がどう思うかを考えると、それをきっかけに別れ話に発展するような大喧嘩になったかもわからない。それに、雲雀は雲雀で、理由も告げずに別れ話を切り出された(と思った)のなら、そしてそれでも別れたくないのなら、すぐにその場で問いただせばよかったのだ。どちらにも非はあった。

「怒って、る?」

 雲雀は泣きそうな声を出した綱吉を見た。何はともあれ、久しぶりの恋人の顔だった。あの日別れる前から、試験勉強中でほとんど会っていなかったのだ。

「怒っては、いないよ、今は。」

 そっと、ふわふわした茶色の頭に手を載せ、撫でる。それを見た骸は、ははん、ボンゴレがすぐクロームの頭を撫でるのは、自分が撫でられるのが好きだから、ですか、と思ったが、黙っていた。そのかわり、別のことを言った。

「このくらいでそんなにこじれるなんて、君たち、愛が足りないんじゃないですか?ここで別れといた方が、後々ためになるかもしれませんよ」
「〜っ、ほんとに元気だな、お前!」

 顔を真っ赤にした綱吉が振り返ると、クロームが何故か、ソファの後ろ側で座り込んでいて、ソファの背の上のところから、毛先がちょん、と見えていた。それは骸が「ゲイの修羅場なんて見るものじゃありませんよクローム」と言ったのを忠実に守ったからだったのだが、聞こえていなかった綱吉は知るはずもなく、疲れちゃったかな、と思っただけだった。

「俺たちに足りないものがあるとしたら!」

 雲雀のほうに再び向き直った綱吉は、握りこぶしで力説した。

「コミュニケーションだと思うんです……!」

 それはまぁ、確かに、と今回のことで心のそこから思った雲雀は、思わず頷いた。

「だから雲雀さん、これから一緒に、オーストラリアでバカンスしましょう!」
「………………コアラ?」

 クロームと同じこと言ってる、と思うと可愛くて、綱吉は雲雀に思い切り抱きついた。汗臭い身体は、着たきりのコートと同じく、なりふり構わず綱吉を探し出してくれたことのあかしのようで、申し訳なさもあったけれど、嬉しくて、ぐりぐりと頬をすりつけた。雲雀は、なんでオーストラリア?と思いながらも、試験も終わり春休みで、異存もなかったので、とりあえず抱き返した。

「ボス、」

 もう修羅場じゃなさそう、と思ったクロームがぴょこりと顔を出すと、ボスと雲の守護者がしっかり抱き合っていたので、修羅場ではないことを確信し、ぱっと立ち上がった。最初はびっくりして、どうなるのかと思っていたけれど、ラブラブにおさまって、嬉しくなった。ボスは骸様を牢から出してくれて、数年後にはクロームに目や内臓をくれるというし、ボス自身も幸せそうで、今日はなんてすばらしい日なのかしら、そう思ったクロームは、ソファの背を乗り越えて、骸の頬に音を立ててキスをした。




「春一番」「微笑がえし」キャンディーズ
2008年3月