沢田綱吉は三年生に進級し
雲雀恭弥は並盛高校に進学した。
雲雀恭弥の恐怖政治はもちろん高校でも布かれ、並盛高校の風紀は雲雀恭弥の取り締まることとなった。もちろん、並盛中学の風紀も引き続いてそうだった。
並中ではあいかわらず、沢田綱吉と獄寺隼人と山本武がちょっとした騒動を起こし、雲雀恭弥は並盛町全体でちょっとどころではない騒動を起こしつつ風紀を守っていた。風紀委員はすべからく雲雀恭弥の支配下にあり、並盛町内に起こったどのような瑣末ごとも報告された。
だから、雲雀恭弥は思っていた。何も変わることはないと。
風向きが変わり、アスファルトの上を、乾いた音を立てて赤く染まった桜の葉が滑っていった。
並盛の街は例年と変わることなく、ハロウィンの装飾を外して、キリストの血と常緑樹と雪の、クリスマスの装いを始めるころだった。
高校生になっても相変わらず学ランで通している雲雀恭弥はしばらくのあいだ、多忙におされて、あぶらぜみがやかましく熱い空気を震わせていたような時分から、中学のある一帯へは足を伸ばすことができなかった。もちろん、風紀委員からの報告には全て目を通していた。問題は何も起こっていなかった。
その日雲雀が小さなイレギュラーに気づいたのは、全くの偶然だった。
授業が終わり、部活がはじまり、いつもなら新しく根城とした高校の礼法室の文机の前に座って、書類を睨んで部屋からは出ない時間なのだが。
「……甘い、」
廊下の片隅にある談話室と呼ばれる一画に、紙コップ式の自動販売機と汚い丸椅子とビニールでできた質の悪い偽の観葉植物がいくつか置いてある。もちろん雲雀が君臨する風紀委員の新しい本部、並盛高校の礼法室の給湯スペースには、挽きたての豆でコーヒーを入れたり、常滑焼の急須で玉露を蒸らしたり、遠く異国の島国の女王も好んだという紅茶をたっぷりと淹れるための設備が整っているのだけれど、ここ最近の雲雀は時折みょうに、紙コップで出てくる安っぽい人工甘味料と香料が舌に残す焼けるような甘味を流し込みたくなる時があるのだった。
フィルターの掃除が行き届いていない空調は埃っぽい熱気を吐き出していて、校舎の中は澱んだぬくもりで満たされていた。「ゆずはちみつ」と名前だけはおいしそうな清涼飲料水は甘いだけで人工的な香りが鼻につき、そのひどく喉に残る感じが何かを思い出す、とかりかりと氷を鳴らしながら雲雀はいつも考えた。
ちょうど偽物の観葉植物のかげになる位置に立ち、壁に背をつけて紙コップを口にし、考えにふけっていると、雲雀にはまるで存在感というものがなかった。野生の獣のように。入学して数日で血と鋼鉄により並盛高校を支配した黒いけだものがそこに潜んでいるとは知らず、談話室わきの階段を、女子生徒の群れが上がってきた。
「あの子、中学生ぽかったね」
「校門のとこで下校待ってるなんて、漫画みたい」
「髪ぼさぼさでさ、かわいかったあ」
「おっとりしてそうだったし、年上の彼女の下僕、って感じ?」
きゃあきゃあとうるさく声を上げる群れを咬み殺そうとするより前に、耳が拾った「中学生」「校門」「ぼさぼさ」「おっとり」という単語がひっかかった。
「部外者が、校内に立ち入ると風紀が乱れる。咬み殺すよ」
「うわっ、立ち入ってないですよ、校門の外ですから」
渋面を作って言うべき台詞を、どうやっても驚いているとしか形容のできない顔で言って、雲雀は生意気な反論にあった。授業が終了し人の減った校内でそれでも話題をさらっていた校門に立つ私服の少年は、中学生でぼさぼさ頭の、顔だけはおっとりした沢田綱吉だった。
「ここに、誰か知り合いでもいるの、何の用」
「あなたに、」
雲雀の手の中で紙コップが歪み、氷がからりと音を立てた。そこで初めて、もう飲み残しもない紙コップを捨てることもせず、握りしめたままここまでやって来てしまったのだと気づいたが、遅かった。
「……ヒバリさん、こんな寒いのに冷たいジュース飲んでいるんですか」
何がおもしろいのか、沢田はふっと笑って、雲雀は驚いた。
沢田はこんな風に、雲雀の目を見てなんでもない雑談ができるような少年だったろうか。
そもそも、目立つことがわかっていて、高校の校門に人待ち顔で立てるような性質だったろうか。
「ヒバリさんに、ちょっと訊きたいことがあって、ここにいればもしかしたら会えるかなって、思ったんです。」
そう言って、にこりと笑った。たぶん今まで、雲雀には向けられたことのない種類の笑みだった。
「話なら、中で聞く。君の言う通り、ここは寒い」
なんとなく、ここで小動物というのは違う気がして、あえて君という二人称を使ったが、沢田がどう思ったのか思わなかったのかは、わからない。
「部外者は、入っちゃいけないんじゃないんですか」
「僕が許可してる、」
最初こそ、大した用事ではないからと遠慮を見せていた沢田だったが、紙コップを持ったままの雲雀の手を見ると、じゃあお邪魔します、と言った。意識はなかったが、寒風の中で氷の入ったコップを持った手は、赤を通り越して白くなっていた。
「ヒバリさんの新しい本拠地がどんなか、知りたいですし」
先に立って歩き出していた雲雀が振り返ると、沢田は首を傾げて見せた。
「噂では、和室だとか」
「……知っているんじゃないか」
「並高のなかに入ったこともないのに、知ってるとは言いません」
自分の目で見ていないのに、という言葉が、報告書を読んで「知った」とすることの多い多忙な雲雀は、そんなものか、と記憶に残った。
「れい、れいほうしつ、」
「読めるんだ」
失礼な言葉に怒りもせず、雲雀が開けた引き戸をくぐって沢田は後に続いた。靴は下足室で脱いでいて、ぺたらぺたらとみっともなく鳴らしていたスリッパを脱ぎ、見よう見まねで畳に上がってくると、特に断りもせずあぐらをかいて座った。
「……正座は、」
「へへ、」
驚いたことに、できないらしい。
「れいほうしつ、って何をする部屋なんですか」
「君みたいなのに、礼法を教える部屋だよ」
適当もいいところの説明をしたが、もとからそう興味はなかったのか、へえ、やっぱりこわいな、というつぶやき一つで特に追加の質問はなかった。かわりに、ろくでもないことを言った。
「なんだか、十年後のヒバリさんの部屋を思い出します」
「用件は、」
「訊きたいことがあって」
「それはもう聞いたよ」
沢田はなぜか、また笑った。
「すごく大したことのない用で申し訳ないんですけど」
「早く言いな」
「……落ち葉が、欲しいんです」
最初は、沢田が言っていることの意味がわからなかった。元はと言えば、沢田家の居候幼女、イーピンに端を発するその話を、あちこち前後しながら、途切れることなく沢田は語った。
イーピンは今年度から、幼稚園へ通い始めたのだと沢田は言った。雲雀は報告書でそのことを知っていたが、黙っていた。本人たちに意思を確認したところ、イーピンはこれから「普通の女の子」になることを望み、ランボはあくまでボヴィーノファミリーの一員でありボンゴレ十代目の守護者であることを望んだから、イーピンだけが日本の平和な幼稚園に通うことになったのだ。
「幼稚園って、色んなことをするんですねえ、オレ、全然おぼえてないんですけど」
「君はそうだろうね」
数週間前のある日、下校途中の沢田が園までイーピンを迎えに行くと、少し乱れた髪でひどく興奮した様子だった。園庭には大きなブルーシートが広げられていて、何かでこんもりとふくらんだ中央と周囲には丁寧に角材の重石まで乗せられており、目を惹いた。砂場かと思えば、どうやら違うようだった。
「落ち葉プールで遊んだ、って言うんです」
園児の保護者の中に、造園関係者がいたそうだ。いちょうやもみじ、色鮮やかな美しい落ち葉が園庭にトラックいっぱいも持ち込まれ、工作、焼き芋、それだけで飽き足らず、落ち葉プールなるもので遊んだということだった。
「ふかふかに溜まった落ち葉のなかに、飛び込んだり、もぐったり、」
舞い上がる紅や黄は子供心にもさぞ美しかったことだろう。
「うちでその話を聞いたら当然、ランボも、フゥ太まで、やりたいって言い出して」
昨今の教育現場は安全管理もしっかりしているから、いくら園児の身内(?)と言えど、園児でない子供が園庭で遊んだりは当然できない。
「それでこの間から、オレ、きれいな落ち葉を集めて歩いているんです。でも、探すと意外と落ちてなくて」
雲雀の家の庭は広い日本庭園だと聞いたからそこか、それとも雲雀ならどこか、いくらでも落ち葉が拾えるようなところを知っているのではないかと思ったのだと言う。
「ヒバリさん、夏からずっと顔も見ないし、忙しそうだから、会えなかったらあきらめて、もしも会えたら訊こうと思って、来ました。」
お仕事の邪魔をしてすみません、とあまりそうは思っていないように見えるへらりとした顔で沢田の用件は締めくくられた。確かに、子供とはいえ人が埋まるほどの落ち葉を、住宅街が主である並盛の町の中で集めるのは、かなり困難なことだろう。物好きなことだ。
「きれいな、って言うのは、」
「あの、赤や黄色って意味なら、そりゃあきれいにこしたことはないんですけど、そうでなくてもいいんです。ただ、泥だらけだとか、犬猫の糞尿がかかってるとか、そういう意味なら、きれいなのは絶対の条件なんです」
ふん、と雲雀はあごに指を当てた。
「僕の家は、残念ながら毎日掃除が行き届いてる。きれいでも、量を集めるのは無理だ」
なにしろ専任の使用人がいるのである。ですよね、と苦笑して、話を打ち切ろうとした気の早い沢田を視線で制して、再び口を開く。
「色のついた葉が少なくて良いのなら、心当たりはある」
自分の言葉で屈託なく笑う沢田を目の前で見るのは、初めてなのではないだろうかと雲雀は思った。
時間を作り、待ち合わせた日曜日、時間の10分前に指定した場所へ行くと、沢田はもう待っていたから雲雀は驚いた。生活態度はだらしない彼のことだからてっきり遅刻するものと、沢田家へ出向いてトンファーを振るつもりでいたから、一瞬、自分のほうが時間を間違えてしまったのかと考えたほどだった。
バイクで行く、とあらかじめ言っておいたからだろう、並盛高校に現れたときと同じぶかぶかのスウェットパーカとジーンズに、ウィンドブレーカーをはおってイヤーマフとミトンをつけていた。
「私服だ、」
キーを回してエンジンを止め周囲が静かになると、目と口をぱかりと開いて、あいさつよりも先に沢田が口にしたのはそんなことだ。私服といっても、足元こそバイク用のショートブーツだが、ブラックジーンズに白いシャツと、防寒用の黒いブルゾンをはおっているのだから、普段の学ランと大きな差異はない。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
別に、顔を見るたび悲鳴を上げてほしいわけではないのだけれど、再会してからこっち、沢田が穏やかな顔ばかり向けてくるものだから、調子が狂うような気がする。
「乗って、」
戸惑うかと思ったが、意外にすんなりと後ろにまたがってきた。しかし、両手はさすがにさまよって、後ろ手にシート後部に掴まろうとするから、咎めた。山道も少し走る予定だから、できるだけ一体になって体重移動をしてもらわないと、困る。
「僕に掴まらなきゃ、振り落とさない保障はしない」
「ヒバリさんの身体に手を回すのが、なんだか畏れ多くて」
「なにそれ」
「すみません」
最初は遠慮がちだった腕は、雲雀がわざとスピードを早めに街を走れば、すぐに力が篭って密着した。運転しやすくなってますますアクセルを開けた。
雲雀は二輪の二人乗りには慣れている。今日のように愛車の後ろに草壁や、風紀委員を乗せて走ることは珍しいことではないし、逆に草壁や風紀委員の後ろに乗ることもある。けれど、自分や彼らの着ている学ランの硬いウールの生地とは違って沢田はふにゃふにゃと柔らかく、触れている部分は体温を伝えてやけに熱く、普段とは違うことを意識した。
雲雀が沢田を連れてきたのは、並盛町の市街地からバイクで(とばして)15分ほどの、雲雀家が所有する山林だった。大半が杉や桧が植林された材木畑だったが、それでも昔は炭を焼いていたから、広葉樹のままの部分もいくらかあった。
「すごい、街からそんなに離れてないのに、森だ、……山だ」
「何が嬉しいの」
「嬉しいっていうか、なんかすごいです」
「……馬鹿っぽい顔、」
歩きやすく整備された山道を、枯れ草を踏んでさくさくと歩く。街の中に取り残されたようなここは、哺乳類といえばせいぜい兎や狸くらいで、危険な獣は滅びて久しい。雲雀家の管理下であれば変質者や野良犬のすみかになるような愚もおかさない。冬にもなれば蛇もいない。いかにも都会の子らしい沢田を連れて歩いても、心配するようなことは何もなかった。
「おお、」
すぐに、沢田が遠慮がちな感嘆の声をあげた。雲雀も見るたびに感心する大きないろはもみじが、鮮やかに紅に染まっている。
「何代か前に植えたらしい」
「自然に生えたわけじゃないんですね」
「このあたりにもみじは多くないから」
「そうなんですか」
枝を見上げて口を開けたままの沢田の返事は、気もそぞろな様子である。とりあえず用件を済ませるため、雲雀はくいと沢田の袖を引いた。
「あ、はい」
「そこ、」
指差して見せた先は、小さなくぼ地になっている土地だ。地形と風向きの関係だろうが、昔から不思議と、まるで誰かが掃き集めたかのように落ち葉の吹き溜まりになる。
「天然の、落ち葉プールだ」
ふらふらと、沢田が引き寄せられるように近づいていくから、雲雀も後ろからついて歩いた。
「そこの落ち葉なら、好きなだけとっていい」
吹き溜まりは、くぬぎやけやきの赤褐色、かしの木の類の灰褐色に、桜の黄、橙、赤のグラデーション、いろはもみじの深紅が混ざり合って、派手ではなくても自然な美しさがあった。
「な、」
突然、じっと吹き溜まりを見ていた沢田の身体が傾いで、表情も変えずにばさりと、落ち葉の中に両腕を広げて倒れこんだ。小さな葉が舞い上がった。雲雀がとめる間もなかった。ごろりと寝返りを打って仰向けになった沢田は、魂を抜かれたような顔をしている。
「…………すごい、」
はあ、と雲雀は息を吐いた。
「馬鹿だね、葉の中に石や枝が混ざってたら怪我をする」
「そうか、うちでやるならそういうことも注意しなくちゃですね、ありがとうございます」
沢田は起き上がる気配もない。吹き溜まりの中にざかざかと踏み込んで覗き込むと、おおきな薄い色の瞳には厚く鈍色の雲に覆われた冬の空が映っている。雲雀はその隣に腰を下ろすと、並んでばさりと仰向けになった。ふふ、と沢田が笑った。
こんなことはしたことがなかったが、乾いた落ち葉は悪くない香りがして、ふかふかと柔らかく、確かに、起き上がりがたかった。
「近いうち、夕方か、朝か、目立たない時間に袋持って取りに来ます」
炎を使って飛んで来るのだろう。
「受験生がこの時期に、余裕じゃないか。並高の合格ライン、知ってるかい」
からかい半分、彼の成績を思えば本気の心配が半分の言葉をかけると、ふと、沢田が首を横に向けて雲雀を見た。先ほどまでの呆けたよう顔はもうしていなかった。
「知ってます。……でも並高は受けないかも、しれないです。イタリアの、ディーノさんの母校へ通う話が出ていて」
そのときの気持ちを、どう表したらいいのか、雲雀には本当にわからなかった。ただ、しばらくのあいだ、息をするのを忘れていたらしかった。息苦しくなって、ようやく気づいた。はふ、と乱れた呼吸で、紅いもみじのひとひらが揺れた。
どうして、何も変わることはないなどと、思えていたのだろうか。あのひどい十年後の姿を見たのに。
は、と沢田が緩く息を吐いて、笑った。けれどなぜか泣きそうな顔にも見えた。
「ずるいですよヒバリさん、そんな顔、夏から今まで、姿も見せなかったくせに」
「どんな顔だって、」
「……教えません」
しばらく、二人とも黙りこくったまま枯れ葉の中に横たわっていたが、沢田はふいに起き上がって、自分たちの身体の上にばさばさと葉を掛け、喋り始めた。
「イーピンが、何より楽しかったのは、森の動物ごっこだって、言ってました」
敷きつめられた落ち葉の上に寝ころぶと、保育士さんが身体の上にもさらに落ち葉を掛けてくれる。まるで布団の中に入っているように暖かい。そのまま園児たちは、森の中で冬越しをする生きものたちの気持ちを想像して、思い思いの動物になってみる。
顔だけ残して、丁寧に雲雀の身体を葉で覆いつくしたあと、沢田は自分の身体もしっかり覆って、また横になった。今度は最初から身体を横向きにして、雲雀の方を見ていた。
「あったかい。このまま春を待つ動物になれたらいいのに、」
落ち葉を散らし身体を起こして、沢田の顔の横に手をついて覆いかぶさり、自分の唇を沢田の唇に押し当てた。
そうして初めて、雲雀は自分の気持ちを知った。
沢田綱吉を、引き留めたいのに、そのための言葉も行動も、雲雀は何も知らなかった。
「ヒバリさん、本当に、ずるいです……」
ぐずぐずと崩れ始めた声にかぶせてもう一度重ねた唇は、安っぽい人工甘味料と香料の、清涼飲料水の味がした。
書いている間ずっとDo As Infinityの柊を聴いていました
2014年1月4日
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