今日の授業は全部おしまいで、帰りの会も終われば、部活に帰宅に寄り道にと、あとは散って行くだけ。学校がある意味もっとも活気づく時間に、2-A前の廊下は静まりかえっていた。人がいないわけではない。むしろそこに二人、ここに三人、といった具合に、微妙な距離を置いて事の顛末を見守る生徒たちが集まっていたのだけれど、身動きどころか、ささやき声ひとつあげる者すらいない。

 視線の中心には、騒動の中心としてさして珍しくもなく、学ランに腕章をつけた雲雀恭弥がいて、得物の、鈍く光る例のトンファーを、まさに振り下ろしたところだった。その先には、やはりさして珍しくもなく、ダメツナこと沢田綱吉がいて、ところがなんと、雲雀の、振り下ろしたトンファーの先を、右の手のひらで受け止めていた。その場で目撃した生徒たちは自分の見たものを信じることができず、目を見張り、口を利くこともできずにいる。

 ただ、沢田綱吉の、伸ばされた左の腕の後ろにかばわれて尻餅をついている、笹川京子だけが、ちいさな声で、ツナくん、と言った。

 綱吉は、ぎり、と雲雀をにらみあげた。怖い、とかそういう感情はどこかにとんでしまい、ただ燃えるような憤りがあった。雲雀の一撃を、素手で受け止めた右の手はじんじんとしびれて、もう二度と動かないんじゃないだろうか、と頭の隅を掠める程度には痛かったが、それでも、雲雀の反応如何では、いつでも炎を灯して反撃できる気持ちがあった。綱吉の視線を受け止めた雲雀も、じろ、と殺気をこめたまなざしを送ったが、すぐに、口元がぐぅっと歪み、眉がつりあがって、癇癪を起こしてわめきだす寸前の子供、のような顔になった。

 綱吉は雲雀のその表情を見て少し辛そうに目を伏せると、トンファーから右手を離した。後ろを振り返り、「立てる?京子ちゃん」、訊きながら左手を差し出して立たせ、そっと肩に手を置いて、固唾を呑んで見守っていた黒川花のところまで連れて行った。集まった生徒たちをかき分けて遠ざかる二人の背中を見送りながら、今起こったことは忘れて、さっき話してくれた予定通り、これから二人で楽しく買い物に行ってくれればいいのだけれど、と思った。
「雲雀さん、すみませんけど、オレも今日はもう帰ります。」
 綱吉はそのまま振り返らずに、しかしはっきりと、うつむいたままそう告げると、足もとにぐにゃっと転がっていたかばんを拾い上げ、綱吉を避けるように自然とできた隙間を通って、昇降口へと向かった。雲雀は引きとめはしなかったし、綱吉も一度も振り向かなかった。とても悲しくて、振り返ってもう一度雲雀の顔を見てしまったら、何をするか、言うか、わからなかった。

 昇降口の、2-Aの下足箱の前には、先ほど帰っていったはずの黒川花と笹川京子が立っていた。黒川花はなんだか複雑そうな顔をしていたが、笹川京子はただただ、綱吉を案じている様子だった。
「京子ちゃん、」
「ツナくん……雲雀さんは、」
「うん、オレもちょっと頭冷やそうと思って」
 はは、と乾いた笑い声をあげればじわりと目頭が熱くなって、あわててうつむいた。

 毎週水曜日は、ビアンキに家庭科を教わる日である。そして、風紀委員の仕事が比較的少ない日でもあった。何をやってもポイズンが出てくる家庭科と、応接室で雲雀にかまってもらうのと、どちらを選ぶのかなんて考えるまでもない。帰宅が遅くなれば当然、ビアンキとリボーンに怒られるのだが、どっちみち、家庭科をやったところでポイズンと怒号と悲鳴が飛び交うのは確定なのである。そんなわけで、水曜日は、雲雀の都合がつく限り、日が暮れるまで応接室で過ごすのが最近の綱吉の習慣であった。

 今日はその水曜日である。六限が長引いたために帰りの会も少し時間がおした。最後の礼をする頃は、いつもなら応接室の扉を叩いていてもいいくらいの頃だった。部活に遅れそうな山本は挨拶もそこそこに教室から駆け出して行ったし、綱吉が雲雀に会いに行くのは気に入らないが、綱吉の意に逆らうのも気が咎める獄寺は、水曜日はいつも「また明日、どうかお気をつけて」とだけ言うとすぐに帰ってしまう。そんなわけで、一人きりで、ほとんど中身の入っていないふにゃふにゃのかばんを肩にかけて、いそいそと応接室に向かおうとした綱吉のすぐ近くで、きゃっと声がして、それからばらばら、ころころと音がした。綱吉は、急いではいたけれど、足元に転がってきたいくつかの小物を拾い上げて、他には落ちていないか、すばやく視線を走らせた。
「はい、京子ちゃん、これで全部みたい。」
「ツナくん!ありがとう!」
 ポーチの中身をぶちまけてしまった笹川京子より、そばにいる黒川花のほうが慌てていた。
「もー、京子、なにやってんの」
 あのくそ爺、授業長引かすんだから、はやくはやく、はやく行こっ、とやたら急かしている。けれど二人とも楽しそうだった。
「二人で、どっか行くの?」
 つられて綱吉もへらへらと笑って、三人並んで話しながら教室の出口へ向かう。
「あのね、商店街の隅の、空いてたお店、かわいい雑貨屋さんになったの。」
「今日開店なのよ。セールよセール」
「ああ、あそこ」
 雲雀が上納金云々、と言っていたっけなと思い相槌を打つ綱吉に、京子は無邪気にツナくんも一緒に行かない?と誘い、ファンシーな雑貨屋に立つ綱吉を想像した花はうわぁ、と言う顔で見た。

 綱吉は、雲雀恭弥と、まぎれもなくお付き合いをしていたが、綱吉にはどうも無意識に、自分が思うほどには、雲雀は自分を思っていないだろう、という謙虚と言うよりは、卑屈と言おうか、そんな思いがあった。したがって、急ぐのは、早く雲雀に会ってかまってもらいたい自分のためであって、少しくらい遅くなったところで、雲雀は気にはしないだろう、と、特に意識もせず、思い込んでいた。

 もちろん、いつもより二十分遅いからといって、雲雀がわざわざ2-Aの教室まで様子を見に来るとは、思ってもいなかったし、心配、なんてものをされているなんて、米一粒ほどだって頭に浮かばなかった。その結果、黒川花を先頭に、笹川京子に左腕を取られ「ね、一緒に行こうよ!」と上目遣いに言われて、行く気はなかったが、まんざらでもなさそうな顔で頭をかきながら教室を出たところで、足早にやってきた雲雀と鉢合わせしたのだった。

「さわ、」

 まさか雲雀が教室に来るとは思わず驚いた綱吉と、何かあったのだろうかと思って来てみれば女生徒(しかも雲雀は、沢田綱吉が過去長い間彼女に片思いし、雲雀と付き合うようになった今でも彼にとって憧れのアイドルである、ということを知っていた)と腕を組んでどこかへ行く算段を付けている(ように見えた)「彼氏」に驚いた雲雀は、一瞬見つめあった。綱吉は、残念なことに、この見つめ合った一瞬の間に、事実はどうあれ、今の自分が「浮気の現場を押さえられた亭主」である、ということに気づくことができなかった。

 立ち直りは雲雀の方が早かった。このあたり、冷静で迅速な判断を求められるマフィアのボス候補として、綱吉はまだまだと言わざるを得なかったが、雲雀も、迅速なだけで冷静ではなかった。

「……っ!!」

 突然トンファーを取り出した雲雀は、振りかぶりもせず一動作で二人に、いや、多少ベクトルが笹川京子に多めに向いていたか、襲い掛かった。何もわからなかった綱吉はそれでも、反射神経だけで手のひらを伸ばし、掴まれていた左腕でそのまま京子を後ろへ突き飛ばしながら、右手でトンファーを受けた。衝撃が凄すぎてしばらく何も感じなかった。突然やってきた風紀委員長の動向を、怯えながら見守っていた生徒たちは、自分の見たものを信じることができず、目を見張り、口を利くこともできずにいた。

 綱吉の手のひらは次第にじんじんとした痺れる痛みを伝え始め、それとともに、綱吉の働きの鈍い頭にも、雲雀が女の子に、しかも笹川京子に、鋼鉄のトンファーで暴力をふるおうとした、という事実がじわじわとしみこみ始めていた。これが冷静でいられようか、綱吉の脳は沸騰した。

 ……そして話は冒頭へ戻る。

「京子ちゃん、黒川、ほら、早く行かないとお店閉まっちゃう」

 靴を履いて昇降口を出た綱吉が、なんとか笑顔に見える、という顔で声をかけると、二人は何か言いたげにしながらも、足早に去っていった。京子が、校門を出るまで、何度も気遣わしげに振り返ったけれど、綱吉はそのたびに笑顔を作って、小さく手を振った。校門を出た二人の姿が、綱吉の家とは反対の方角へ曲がって消えると、がっくりと肩が落ちた。綱吉は、ひとりで、とぼとぼと帰路に着いた。

「ただいま〜……」

 しょんぼりと玄関のドアノブを握ったが、鍵がかけられていた。あれ?と思って中の様子を伺ってみるが、人の気配がしない。いつもは綱吉の帰りは遅いから、皆で買い物にでも出かけたのだろうか。ますます肩を落として、綱吉は、財布に入れた鍵を取り出し、誰もいない屋内へ入った。




2009年4月14日