静まり返った家の中で、折角早く帰ったから勉強でもするか、という気分にはとてもなれないし、かといって、ぼんやりしていると先ほどのあれこれが思い出されて、じっとしていられない。結局、かばんを部屋に置いただけで、服も着替えないまま、台所に来た綱吉は、お湯を沸かし始めた。
不器用な綱吉はまだ、一人で包丁を握るのは許されていない。以前何度か受けた家庭科の授業は、喫茶方面からスタートした。綱吉は、明りも点けない薄暗い台所で、水を満たしたやかんを火にかけ、ビアンキの言葉を思い出しながら、コンロの前で、湯が沸騰するのを待った。
『いい男っていうのは、おいしいものを知っている男のことよ。』
まったく、彼女らしい言い分だった。確かに、リボーンは、味にうるさい。
『どんなときでも、コーヒーを……紅茶でも日本茶でもカクテルでも、何でもいいわ、一杯を楽しむ余裕を持つこと。』
やかんが、気泡を吹き上げる、こっこっという音を響かせ始める。今の綱吉には、「一杯を楽しむ余裕」があるとは言い難かった。ちらちらと踊る、ガスの青い炎を、見るともなしに見る。やかんにいっぱいの水が、沸騰したお湯になるのには、結構な時間がかかるものだ。黙って立っていると、どうしたって、雲雀のことを考えてしまう。何故あんなことになったのか、彼が突然トンファーを振りかざした理由を考えてみる。
やかんの注ぎ口から、しゅうしゅうと白い湯気が上がり始めた。まずは習ったとおりにコーヒーだろうか。コーヒー豆はどこにしまってあるのだったか、リボーン用のと間違えたらポイズンクッキングだ、と青くなったところで、玄関ががたがたと騒がしくなった。あら、ツナ、帰ってきてるわ、と奈々の声。ぱたぱたと軽い足音がして、戸口にかかったのれんが持ち上がる。
「ツナ!ついに心を入れ替えて、私の授業を受け……、あらまあ、ひどい顔ねぇ。」
ビアンキの吊り上った眉は、綱吉の顔を見るなり、苦笑に変わった。そんなに落ち込んだ顔をしているのだろうか、思わず手のひらで頬を触ってみる。
「ママン、買ってきたものは私が片付けるわ。ついでにツナの家庭科をやるから」
「あら、そう?じゃお願いしちゃおうかしら。私は洗濯物をたたんでるわね。ありがとうビアンキちゃん」
のれんの向こうからそんなやりとりが聞こえた後、エコバッグを抱えたビアンキが、台所の明りを点けて入ってくる。テーブルの上にバッグを置くと、がさごそと何かを取り出して、まだコンロの前に立ったままの綱吉の手もとを覗き込んだ。
「お湯を沸かしてるのね。コーヒーを淹れるつもりだった?」
頷くと、両手に乗るくらいの、軽い紙の箱を手渡される。
「今日は、これを淹れて。」
マーガレットのような、花の絵。
「カ、モ、ミ……カモミール、ティー?」
「日本語だとかみつれ茶と言うんだったかしら。ハーブティーよ。今のツナみたいな顔をしてる人には、ぴったり」
からかうように言われて、綱吉は少し膨れながらも、パッケージのビニールをはがして、箱の中からティーバッグを取り出した。
「ポットを出して。白い陶器の、ママンが紅茶を淹れるときのやつよ。ティーバッグでも、ポットを使ってちゃんと蒸らした方がおいしいわ、覚えておいて。カップはあんたのと、私のと、ママンのと、3つ。」
言われるまま、準備をする。テーブルの上に並べたポットとカップに、電気ポットのお湯を入れて、温める。
「そうよ、ポットとカップは必ず温めるの。ちゃんと覚えてたのね、えらいじゃない。」
ビアンキは、気味が悪いくらい優しい。優しいと言うか、まるで小さな子供の扱いだ。
「何度もすっぽかしたから、もっと怒ってるかと思った、」
気まずくなった綱吉がぼそぼそと言うと、ビアンキは腰に手を当てて、勘違いしないでよ、と人差し指を突きつけてきた。
「もちろん、怒ってるわ。でもね、私はいつでも、愛に悩める者の味方よ。」
「あ、……うぅ、」
愛。「愛のためなら人は死ねる」と豪語するビアンキには、ひと目見ただけで綱吉の落ち込みの原因までわかるのだろうか。うなだれて、ポットを温めていたお湯を捨てると、個包装をやぶって取り出したティーバッグを三つ、入れた。温められた陶器に茶葉が触れた、それだけで、甘い香りがほのかに立ちのぼってきて、綱吉はぱちぱちと瞬きをした。
「くだものみたいな、におい?」
「カモミールは、りんごの香りに例えられることが多いわね。いらいらしたときや眠れないとき、それから風邪の引きはじめに効くの。」
やかんからは、大きな泡が立っているだろう、ぼこぼこという音が聞こえてくる。もういいかと手を伸ばして、鍋つかみをはめなさい、と叱られた。沢田家の鍋つかみは、奈々お気に入りの、ぶたのぬいぐるみのようなミトンで、綱吉はいつも恥ずかしくて手にするのを躊躇してしまう。しばらく前にリボーンに見せられた、殺し屋の出てくる映画の中で使っていたのと、同じ鍋つかみだ。
ぶたがやかんの取っ手をくわえる。ポットにお湯を一気に注ぐと、さっきとは比べ物にならないほどの香りが広がった。ささくれだった心がちょっと泣きそうになるような、そんな香りだ。綱吉はちょっとだけ目を閉じた。目蓋の裏がじんわりと痛い。熱く潤んでくる前に、すぐ目を開けた。ポットをポット敷きの上に乗せて、やかんの残りのお湯は電気ポットへ。カップに入れてあったお湯を捨てる。箱には、蒸らし時間は3分とある。あと1分。
「お茶請けはとっておきを出してあげるわ。子供たちには内緒よ。」
ビアンキが、ふちにぶどうの葉のレリーフがついた白い皿に、花柄の缶から取り出したビスケットを並べる。
「アーモンドの粉のビスケット。私が小さな頃に食べたのと、そっくりな味のを見つけたの。日本のパスティツェリアはすごいのね。」
綺麗な爪のついた指でビスケットをつまんで、目を細めているビアンキは、「お姉さん」なのだ、と綱吉に思わせた。
熱いカモミールティーが入ったマグカップを手に取る。てのひらからじんわり伝わる熱と、淡い黄色に色づいたような、りんごに似た花の香りの湯気に包まれて、ついに綱吉の目に涙がにじんできたが、ビアンキの前で泣きだすのは嫌で、ぐっと飲み込んだ。その代わりに、何も言えなくなってしまった。黙り込んだ綱吉に、ビアンキは何も言わなかった。ただ、「ハーブティーは結構クセがあって、飲みにくい人もいるから、薄めるお湯やハチミツを一緒に出した方が親切ね。」と言って、ハチミツにティースプーンを添えて、綱吉の方に押しやった。
こんなときに人に優しくされると、自分の優しくないところばかりが思われる。別れ際の、子供のような雲雀の顔がちらついて、綱吉は落ち着かない気持ちになった。もしも、綱吉が、あの時雲雀をにらんだように、逆に雲雀ににらまれたら、嫌われたと思って泣いてしまうだろう。
「……ビアンキ、これ、においのわりにおいしくないよ」
カモミールティーに、ひとくち、口をつけた綱吉は、大げさに眉を寄せて不平を言った。綱吉自身が思っていたよりももっと、声は涙をこらえて震えていた。
「だから、クセがあって飲みにくい、って言ったでしょう。」
ビアンキは綱吉の手からマグカップを取り上げて、きらきら光るアカシヤ蜜を、小さなスプーンでたっぷりすくって入れた。カモミールティーの金色に、ハチミツの金色が混ざる。
「ミルクも入れる?」
綺麗な色を濁らせたくなくて、綱吉は首を横に振った。ビアンキはそんな綱吉の、手にはマグカップ、口にビスケットを押し込んできた。
「ツナ、謝っていらっしゃいな。」
口がふさがっているのと、気持ちの問題と、両方で、綱吉は何も言えなかった。前歯でビスケットを割ると、口の中でほろほろと崩れて、アーモンドの香ばしくて甘いような味と香りがした。
「何があったか私は知らないし、誰が悪いか正しいかなんてどうでもいいのよ。でも、忘れたらいけないわ、いつでも正しいのは、愛なの。ツナは今、後悔してる顔をしてる。愛に対して間違った行いをしたのなら、謝ったほうがいいわ。」
ビアンキは少し笑って、けれどどこか痛むような顔をしている。いつも自信にあふれているビアンキにも、胸が苦しくていてもたってもいられなかったり、涙がこぼれて眠れない夜があるのかもしれない、と、綱吉はその時初めて思った。
「いままで、ビアンキと獄寺くんって、あんまり似てないなぁって思ってたけど、やっぱり、似てる。」
口の中に残ったビスケットのかけらを甘いお茶で流し込んで、独り言のようにこぼれた呟きに、ビアンキはとても嬉しそうに微笑んだ。そんな顔をすると、愛人だとか殺し屋だとか、怖い肩書きをいっぱいくっつけたビアンキも、普通の17歳の女の子に見える。そのことに勇気をもらって、カモミールティーを飲み干した綱吉は立ち上がった。
「オレ、学校行ってくる!」
「これ、持って行きなさい」
頷いたビアンキは、テーブルに出しっぱなしになっていたエコバッグに、カモミールティーやビスケットを手早く詰めた。
「やっぱり、今日も、家庭科できなかった」
それを受け取って、きまり悪そうに言う綱吉の頬を、鮮やかなフューシャの爪がつんつんとつつく。
「あのね、私が教えるのは家庭科だけど、料理を作るのも、お茶を入れるのも、お掃除もお洗濯も、全て、愛のレッスンなの。だから、ツナが愛に誠実になるのなら、私の授業を受けているのよ。……でも、リボーンの言いつけを破るのはダメよ。今度授業さぼったら、愛の名の下に殺すわよ!」
ビアンキの言葉に笑って、そして青ざめて、丸めていた背中をぴんと伸ばして、綱吉は学校へと駆け出した。
『ぶたのぬいぐるみのようなミトン』『殺し屋の出てくる映画』
=「レオン」(リュック・ベッソン/アメリカ/1994)
2009年4月15日
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