沈む夕日が、住宅街の家々の屋根にそって赤く燃えていた。家に帰るのであろう、自転車の子供たちとすれ違う。どこかから夕食の支度の匂いがする。これから暗くなる、ちょっと淋しくなる時間だ。雲雀に早く会いたくなって、でも転ばないように、エコバッグを抱えて走る綱吉は、慎重に足を速める。
「……まだいる、よね」
 息を切らして学校に到着すると、野球部はまだ練習していたが、終わった部活も多いようで、校舎はあらかた消灯されていて、校庭にも生徒の影はまばらだった。

 昇降口へ回る。呼吸が落ち着いて、身体が冷えてくると、果たして、まだ雲雀がいたとして、彼が話を聞いてくれるのか、綱吉のことを嫌いになってしまったのではないか、という恐ろしい想像が頭の中に広がってくる。上履きを取ろうとして、思わず手を止めてしまった綱吉は、ぶんぶんと強く首を横に振った。アイにセイジツ、と口の中で呟く。どきどきする。手が震える。それでも、上履きに履き替えると、応接室に向かった。それが自分の「誠実」だと綱吉は思った。

 薄暗い無人の廊下はいつもより長く、そこを歩く間、綱吉は勇気を振り絞らなければならなかった。たどり着いた応接室は明りは消えている。それでも、雲雀がいる、と綱吉は確信した。

 ゆっくりと、ノックは三回。返事はない。けれど、綱吉は静かに扉を開けた。
「……入ります、沢田、です、」
 窓際の、執務用のデスクの椅子が、むこうを向いている。
「雲雀さん、」
 動いたようには見えなかったが、椅子はぎしりと鳴った。雲雀が、綱吉の顔を見たくもない、と思っているのなら、何か言うか、綱吉の存在を、この部屋から強制的に排除するのではないだろうか、と思うことにする。一歩、室内へ踏み込んで、そっと扉を閉めた。雲雀は、何も言わない。
「…………、」
 何を言おうか考えて、結局、綱吉も黙ってしまった。胸に抱えたエコバッグの中の、ビスケットを入れたビニール袋が、カサリと音を立てた。
「……雲雀さん、お茶、飲みませんか、」
 返事は聞かず、給湯スペースに立つ。備え付けのアルマイトのやかんに水を入れ、換気扇を回し、火にかける。ティーバッグを二つ出し、ポットとカップを温めるために給湯器のお湯を入れた。準備がひと段落ついて、がさごそとした物音がやむと、振り返らないまま、雲雀がようやく口を開いた。
「なにしに来たの。説教?」
 ぽつりとした呟きに近い声は、綱吉の思い過ごしか、それとも真実そうなのか、さびしげに聞こえた。何を言おうか考えたとき、綱吉の頭では、上手い言葉は思いつかなかった。ならば、なにしに来たの、と言われれば、言うことはひとつだ。

「ごめんなさい。」

 やかんの前で、雲雀の方を向いて立ったまま、綱吉はそう謝って、それからうつむいた。がたん、と雲雀が立ち上がる音がして、恐怖ではないけれど、びくりと肩が揺れる。床を見ている綱吉の視界に、雲雀の上履きのつま先が入る。すぐ目の前に立っている。
「どうしてあやまるの、」
 やはり力なく問いかける雲雀に、綱吉は顔を上げた。
「オレっ、雲雀さんのこと、ひどい顔でにらんじゃったし、それに、雲雀さん、オレに用があって、教室まで来てくれたんですよね?なのに、帰っちゃった、し……」
 勢い込んで言い出したものの、無表情な雲雀を見ているうちに、次第に尻すぼみになって、再びうつむいた。最初に部屋から追い出されなかったのは、怒っていないからじゃなくて、それすらも嫌だと思われていたからじゃないのか、だんだん、不安な気持ちが、胸に重くのしかかってくる。泣きそうになって、ぐっとこらえた時、また雲雀の声が聞こえた。

「……今日、どうして、来なかった、の、」

 こんなに間近で聞いて、綱吉の気のせいなんかではなかった。雲雀の声は微かに震えていた。そのことに驚いて、雲雀の顔を見る。ぐっとへの字に引き結ばれた口と、感情をこらえて赤くなっている目元。そこでやっと、綱吉は、雲雀が教室までやって来た理由を悟った。綱吉がなかなか来ないから、様子を見に来たのだ。それに気づいたらもう、こらえきれなくなって、綱吉はまつげに涙を溜めて、しゃくりあげた。
「遅くなって、ごめんなさい。授業が、長引いて、それで、そのことで、京子ちゃんと、黒川と、しゃべってて、」
 京子、という名前を口にすると、雲雀の眉がぎゅうと寄った。綱吉の12p上から、ぐっと手が伸ばされる。ぶたれるのだろうか、目を見開いて雲雀を見た。

 後ろでかたかたと、沸きかけたやかんがフタを鳴らしている。綱吉は苦しくてむせそうになるのを、努力してこらえた。雲雀は締め上げるように綱吉を抱きしめている。それは、客観的に見れば、抱きしめると言うより縋っているようだったが、当事者である綱吉にはわからない。
「君が、来なくて、」
 ふわふわした茶色の頭の、こめかみのあたりに頬を押し付けながら、雲雀が搾り出すように言う。
「どうかしたのかと思って、待ってた。」
 綱吉は、ぎゅうぎゅうと抱きこまれた腕を何とか引っ張り出して、雲雀の背中に回して、やっぱり締め上げるようにしがみついた。どうして、綱吉がいつもの時間に応接室に行かなくてもこの人は気にもとめない、なんて酷いことが思えたのだろうか。綱吉の唇が、声もなく、ごめんなさい、と動く。
「教室に見に行ったら、笹川の妹、と、どこかに行く、と話していたから、」
 そこで雲雀は、ひゅう、と震える息を吸った。綱吉はただ、ごめんなさいごめんなさい泣かないで、と心の中で繰り返しながら、回した腕で雲雀の背中を何度も撫でた。力が入りすぎて、撫でるというより、ごしごし擦っているようだった。
「君は、やっぱり、……笹川京子のほう、が、」
 言葉が不自然に途切れる。必死に首を横に振る綱吉の、ふわふわ揺れる髪に顔を埋めて、雲雀はため息をついた。
「……そう思ったら、」
 衝動的に、トンファーを出してしまったのだろう。
「ごめんなさい、」
 綱吉はもう一度言った。雲雀はこんな気持ちのまま、今まで、綱吉がビアンキとお茶を飲んでいる間も、この夕暮れの応接室に一人でいたのだ。そのことにも、謝りたかった。
「オレ、雲雀さんが、雲雀さんが好きだから、女の子に武器を向けるとこなんて、見たくなくて、それで、」
 雲雀の腕が緩み、トンファーを握るたこのある長い指が、綱吉のまだまだ子供らしい頬に添えられる。
「ごめん。」
 あの雲雀が、こんな顔で謝るくらい、そして女の子に嫉妬するくらい、綱吉のことを好きなのだった。それはうぬぼれではなく、綱吉が、雲雀をまたこうやって傷つけてしまわないように、心に留めておかなければならない事実だった。今の綱吉には少し重く、それをしっかりと抱えていられるように、大人になりたい、と思わせた。
「……笹川の妹にも、謝らないと。」
 恥ずかしそうに続けられた言葉で、綱吉はようやく、少し笑うことができた。
「君、手、怪我しなかった、」
 雲雀は綱吉の右手を取って、検分するように目の前にかざす。トンファーを受け止めた手のひらには青タンができはじめていたが、それだけだ。綱吉はぐーぱーぐーぱーとして見せて、鈍い痛みは隠して、オレ、頑丈なんです、と言った。困ったように笑った雲雀は、痛かったら言いなよ、と言って青くなったところにそっと唇で触れた。二人とも黙って、静かな部屋の中で、雲雀の舌がぺちゃりとたてた水音と、すっかり沸きかえって、しゅうしゅうと鳴るやかんの音が、うるさいほどだった。

「雲雀さんは、カモミールティー、飲んだことありますか?」
「……ない。」
 ビアンキに持たされた袋の中には、ご丁寧にも、ぶたの鍋つかみまで入っていた。綱吉が手にはめたそれを、興味しんしんで見つめる雲雀は、どこか上の空の返事をした。綱吉は口元を緩める。今までだったら、気のない返事の部分だけで、雲雀は綱吉の話には興味はないのだと思って、落ち込んでしまうところだが、もう、そうではないとわかる。雲雀は、驚くほど、綱吉の一挙手一投足に注意を払っている。何故これまでそれに気づかなかったのか、けれどそれを後悔するより、気づくことができたことを、喜びたい。ティーバッグを2つ入れたポットに湯を注ぐと、やわらかな、りんごに似た香りが広がった。雲雀の興味が、鍋つかみからポットに移る。
「いい匂い、」
 ひくひくと鼻を動かす仕草は幼くて、無防備だ。ポットに蓋をしてしまうと、注ぎ口を覗き込むようにする。綱吉はふざけて、その鼻先を、ぶたにぱくりとかじらせた。
「何するの、」
 わし、とぶたを捕まえた雲雀は、がぶり、と噛み返してくる。中に入っている、綱吉の手の感触を確かめるように、何度も甘噛みする。たまらずに笑い出した綱吉の頬にまで歯を立て真っ赤にさせて、雲雀は満足そうな顔をした。

 もうほとんど冷めてしまった、カップの中の湯を捨てて、とろりとした金色のハーブティーを注ぐ。2客のカップ&ソーサーを雲雀が両手に持ってくれたので、綱吉はビスケットを並べた皿を持って続いた。もう夕日も沈み、薄い紫が、紺から夜の黒へと、空は色を変えている。

 ソファに座った雲雀の隣に、綱吉も座った。いつもより、距離を近く、肩が触れ合うほどのところへ座ってみる。すると雲雀が、こて、と頭を倒して、綱吉の頭に預けてくるから、嬉しくてまた笑う。
「雲雀さん、今度、商店街の隅の、新しい雑貨屋さん行きませんか、」
 綱吉は、今日の騒動の発端とも言える店に、行ってみたい、と思った。男二人で、目立つかもしれないが、そこにはきっと、雲雀の気を惹くものがたくさんあるだろう。
「うん?上納金は、もう草壁が取り立てたけど?」
 そんなことを言って、カップを傾けた雲雀が、カモミールティーに口をつけて、またすぐに離した。
「……これ、匂いと味が合ってない。」
 ビアンキは、鍋つかみは持たせてくれたのに、ハチミツは持たせてくれなかったのだった。心底から不満そうな雲雀を見て、綱吉は、あっはは、と大きな声で笑ってしまった。匂いがりんごに近いから、つい味もそんな風に想像してしまう。予想との落差のせいで、余計に妙な味に感じる。飲むのは二度目の綱吉は、味については覚悟していたので、あれ、意外と普通に飲める、と思っていたが、初めて飲む雲雀には、やはりおいしいものではなかったようだ。いらいらや、不眠や、風邪の引き始めに効く、らしいので、是非とも雲雀に積極的に飲んで欲しいのだけれども。
「ビスケット、おいしいですよ」
 一枚つまんで、差し出した綱吉の手を、手首で捕まえて、雲雀が引っ張った。
「口直しなら、こっちがいい。」
 目を伏せた雲雀の顔が近づいてくる。綱吉は少し赤くなって、目を閉じながら、あの雑貨屋でぶたの鍋つかみを買ったら、雲雀はお湯を沸かして、カモミールティーを飲むんじゃないだろうか、と考えていた。





これで終わりです。
読んでくださってありがとうございました。
2009年4月16日