風紀委員の朝の服装検査が行なわれている。いつもは吸い込まれるように校門へ消えてゆく生徒達が、流れが滞ることによって人だかりになって、雲雀の嫌いな群れを形成しているように見えるのは、皮肉なことだ。
生徒達はいくつかの列になって、服装と所持品のチェックを受けている。綱吉は、一番人の少ない中央の列へ、「一番空いているから並びました」という顔をして、さっと最後尾につけた。そこが真ん中であるにもかかわらず何故空いているのかと言えば、チェックしているのが雲雀と草壁の二人だからである。実際のところは草壁がチェックして、雲雀は腕を組んで見ているだけなのだが。
この列へ並ぶのは、最初から服装も所持品も問題がないという自信がある者ばかりだ。一人二人と足早に校舎へと消え、もうすぐ綱吉の番がやってくる。綱吉は誰にも見咎められぬようすばやく、シャツの裾と襟をくしゃっと乱し、ネクタイをだらしなく緩めた。髪は何もせずともぼさぼさである。すぐ前の、いまどきおさげ髪の女子生徒が「行ってよし」と草壁に告げられ、逃げるように去る。
「お、おはっ、おはようございまっ、」
本当はにっこり笑って挨拶して、朝からお仕事お疲れさまです、なんて言ってみたいのだけれど、緊張のあまり、顔はこわばるし舌は回らない。大概の人間は雲雀の前ではそうなるから、不審には思われていないようだが、綱吉と綱吉以外の人間では、緊張する理由が異なる。
「沢田綱吉、」
雲雀が、組んでいた腕を外して、綱吉を、綱吉の目を、見る。さらさらの黒髪が動きに合わせて揺れて、吸い込まれそうな真っ黒の瞳が、確かに綱吉を捕らえる。綱吉にとっては、この瞬間のためだけに、服装検査は存在する。雲雀は、はあ、とため息をつく。
「ネクタイはある、シャツもカバンも指定のものだけど……どうせ、ここまで走って来たんだろう、遅刻魔だからね、君は」
指が、白くて筋張っていてトンファーを握るたこのある雲雀の指が、綱吉に向かって伸びてきて、シャツの襟を整え、裾をきゅっと引っ張りスラックスの中へ押し込んで、ネクタイの結び目を整える。吐息が茶色の前髪を揺らすほど近くて、綱吉は、自分の鼓動が雲雀に聞こえてしまうのではないかと恐怖する。ぽふ、と髪を撫でられれば、雲雀の匂いが鼻先を掠める。
「行っていいよ。……次は気をつけなよ、」
「は、はい、ご、ごめんなさ、い、」
呆れた視線に、毎回毎回だらしない姿で服装検査に挑む綱吉なんかに微笑んで挨拶されても、雲雀は苛立つだけかもしれない、と思い至って、ぎくしゃくと校門を後にする。
だって、服装が乱れていると、雲雀が直してくれる。その、時間にすれば30秒ほどの触れ合いが欲しくてたまらなくて、小狡い真似をやめることができない。
廊下ですれ違う時、颯爽と翻る学ランを目で追っている。
舌なめずりでトンファーを揮われる群れを、雲雀のその表情を向けられる相手として羨み、慌てて首を振る。
これは、恋だ。どうして、どこが、いつから、なんて綱吉自身にもわからない。ただ、気がつけば目が雲雀を見たがって勝手に追っている。そのくせ、雲雀に見られれば緊張で震える。見られなければ一日落ち込む。動きの一つ一つ、学ランの皺までもが格好いいと思う。恐怖政治を敷く独裁者だけれど、小鳥には優しい。暴力だけの人ではない。綱吉のぼさぼさの頭だって、呆れながら整えてくれることもあるではないか。ひとつ、格好良い、と思ったら、後は何もかもがみな、好ましく映る。
雲雀に想い返して欲しい、なんて望むことさえ畏れ多いけれど、雲雀を好きと言う気持ちまで否定するつもりはなくて、姑息でも愚かでも、小さな接触を望んで、日々を過ごしている。
ある日、綱吉は、じゅうぶん間に合う時間に家を出たというのに、遅刻した。
「沢田、お前またか!」
一限の教科担任が声を荒げる。教室が馬鹿にしたようなくすくす笑いで満ちる。綱吉の遅刻は、今学期、この曜日にだけ異常に多い。
「後で職員室に来い!」
この教師は、風紀委員を担当している。もちろん、並中の風紀委員は雲雀の独裁だから、担当などあって無きが如しだが、学校側から風紀委員へと渡る書類は全てこの教師が窓口となる。たとえ教師と言えど、雲雀と積極的に係わり合いになるのは嫌なのだ。だから、さぼりや宿題忘れ、遅刻のペナルティは、応接室へのお使い、となる。
放課後、大きなダンボールを抱えて応接室へ向かう綱吉の足取りは、重くはない。ただ、いつから溜めていたのか、箱の中は書類が山盛りに詰め込まれていて、その重量によたよたしている。この先には、雲雀がいる。綱吉の心は弾む。きっと、また遅刻したの、と呆れ顔で言われてしまうのだろうが、もとより、雲雀が綱吉に良い感情を持ったことなどないだろうから、会えないよりも、呆れられても注意されても会えるほうが、綱吉にとっては断然、プラスポイントだ。
何とか、応接室の前へ到着する。重い荷物を運んだせいではなく高鳴る鼓動を、深呼吸で落ち着かせようと無駄な努力をする。綱吉の頬が紅潮しているのを、雲雀は、力仕事のためだと思ってくれるだろうか。
「わ、おっとと、」
片手を離してノックをしようと思ったが、バランスを崩し箱ごとひっくり返しそうになって、慌てて抱えなおした。いったん床に箱を置いてからノックするしかない。しかし、もたついていたわずかの間に、突然、ノックするべき扉が開いて、綱吉は驚いてびくんと肩を跳ねさせた。
「沢田?何の用、」
内側から扉を開けたのは、雲雀恭弥その人だった。綱吉の気配は、デスクに向かう雲雀を立ち上がらせるほど不審だったろうか。けれど、まるで出迎えられたようで、こっそりと喜んでしまう。
「先生からこれ、預かってきました」
大義名分をかざす。やっぱり雲雀は呆れて、それでも綱吉を応接室の中へ招き入れてくれる。
「どこに置きますか?」
常ならば、「お使い」の書類はデスクの文箱へ入れるのだけれど、今日は大きな段ボール箱だ。デスクに乗せることはできるけれど、それだけでふさがってしまうし、かといって床に置くのもためらわれて、綱吉は首をかしげて雲雀を見た。
「ああ、どうしようかな、」
この量は雲雀にも予想外だったのか、置き場を探して視線がさまよう。その時、ごう、と空が鳴った。
「……っ!」
大きく開け放した窓から、強い風が吹き込んできて、ダンボールの中に乱雑に詰め込まれた書類たちを舞い上がらせた。何枚かが綱吉の顔を乱暴に叩いていって、声も出せない。カーテンが風をはらんで大きく膨らんで、カーテンレールがかたかた、きしきしと音を立てる。
狭くはない応接室の中いっぱいに、白い紙が舞う。まるで何かの映像を見ているような気持ちで、綱吉は呆然と見守って、それからはっとして、とりあえずソファの前のテーブルにダンボールを降ろした。書類をかき集めに走る。
「ご、ごめんなさいっ」
「……別に、君のせいじゃないだろ」
それ以上書類が飛ばないようにか、ダンボールの上に学ランをかぶせると、雲雀もまた、あちこちに散らばる紙を拾い集める。
「あ、お、オレがやりますから」
慌てて綱吉が言っても、雲雀は無言だ。どんくさい綱吉にまかせていたらいつまでも終わらないと思っているのかもしれない。綱吉もそれ以上は言わず、ただ、急いで書類を拾い、まとめる。面倒だとは思わない。仕事を中断させてしまった雲雀には申し訳ないが、応接室に居られる時間が延びる。雲雀と二人、同じ部屋に居られる。見落としのないように、書類を折ったり汚したりしないように、丁寧に拾ってゆく。
床に這いつくばって書類を探しながら、ちらりちらりと雲雀を伺う。気づかれないように、こっそりと。白い頬に、黒い髪がかかって影を作る。少し上を向いた鼻と、とがったあご。野生動物のような鋭い目。シャープな横顔を盗み見ては、胸を高鳴らせる。
何度目か、視線をやったところで、綱吉の視線は黒い瞳とかちあって、動揺のあまりすぐさま反対側を向いた。そして、もったいない、と落胆した。盗み見しているのが後ろめたくて、バレたような気持ちになって目をそらしてしまったけれど、まさか雲雀も綱吉がちらちら見ていたなんて思うまい。偶然、目が合ったのだから、微笑みの一つでも浮かべておけば、少しは今日の雲雀の記憶に残ったかもしれないのに。一応、書類を捜してあちこち見ているフリを装ったけれど、これではまるで、雲雀に怯えて避けたようだ。小さな、けれど確かな、はあ、という雲雀のため息が聞こえて、綱吉は、この床に埋まってしまいたい、と沈み行く気持ちで考えた。
それからはもう、雲雀を見ることもできずに、ただ黙って拾い集めた。緊張がそう思わせるのか、それとも実際にそうだったのか、結構な時間が経過していた。床の隅から隅まで、視線を走らせる。残りは数枚だ。顔も上げず、2メートルほど先の、デスクの下に半分入っているのを拾おうと手を伸ばして、そして固まった。
2010年6月18日
|