「あ……っ、」

 リノリウムの床の上の、白い紙、その上にある綱吉の手、その上にさらに重ねて、雲雀の手がある。手があるということはつまり、四つん這いになった綱吉のすぐそば、ほんとうに間近なところに、同じように床に膝を突いた雲雀がいる。
 綱吉は、自分が回りを見ていなかったから、雲雀がすぐそばにいたのに気づかず、偶然同じ紙を拾おうとして、手が重なってしまったのだと考えた。

「あ、あの、オレ、前見てなくて、ご、ごめ、」

 言葉がぶつりと途切れて落ちた。引き抜こうとした手を、綱吉の手を、一回り大きい雲雀の手が、ぎゅっと握った。まるで、逃がすまいとするように。

 はじかれたように顔を上げて、そして、すぐ隣、肩が触れ合うほどの距離から、じっと綱吉を見ている雲雀に出会う。

「あの、あ、っ」

 唇は空回りするばかりで、言葉が出ない。冷たそうに見える雲雀の白い手は、いま綱吉の手の甲の上で、燃えるように熱い。視線を絡め取られる。真っ黒の目は、鉱物のようなのに、熱に揺れている。か、と一気に頬が熱くなる。雲雀の気持ちが見える。

「雲雀さ、んっ、」

 喰いつくように、雲雀の口が綱吉の口を覆った。唇に歯を立てられる。舌でなぞられる。見開いたままの綱吉の目を、焦点が合わないほどの近い距離で雲雀が見ている。手の下で、くしゃ、と書類が歪んだ。手首を取られて、ぐいと引き寄せられる。

「沢田、」

 体勢が変わって離れた唇に、時を止めたようになっていた綱吉がようやく呼吸を思い出して、はぁ、と大きく息を吐いたのに、ぐっとあごをつかまれて、再び口をふさがれる。けれどそれは先ほどのような喰いつくものではなく、擦り合わせるようにしっとりと唇を重ねるやり方だ。

「沢田、さ、……綱吉、」
「っひ、ひばりさ、」

 お互いに名前しか出てこない。けれど、目が合って唇が合ったら、全てが。二人、同じ気持ちなのだと伝わってしまった。

「綱吉、綱吉、」

 ぎゅう、と抱きしめられて、必死に腕を回す。くしゃくしゃになった書類が床の上を滑ってゆく。カーテンが踊っている。一度身体が離れて、再び見つめ合った。綱吉は目を閉じる。頬を両手で包まれる。

「ん、う」

 唇が出会って、柔らかさを押し潰すように密着する。強く押し付けて触れ合って、軽く開いたところから、そっと雲雀が入ってくる。始めはおそるおそる、それから少し遊ぶように、次第に貪欲に、熱くて重い塊が、綱吉の中で動く。こんな、外国映画で見るようなキスなんて、ついさっきまで、まさか自分にする機会があるだなんて考えてもいなかった。やり方なんて知らない。けれど、雲雀が、熱くて柔らかい、普通では触れないところで、綱吉に触れたがっているのがわかる。深く知りたいと思ってくれているのがわかる。綱吉も同じ気持ちだから、同じように返すだけだ。

 窓際のデスクの影で、床に座り込んだまま、夢中で探り合った。絡めて、吸って、追いかけて、逃げて、頭の芯まで、限界もなく熱くなる。呼吸が苦しくて離れると、濡れた唇がすうすうして冷たくて、結局またすぐに触れ合う。苦しくて熱くて、力が抜ける。座っているのも辛くなって、綱吉が床へ崩れ落ちれば、雲雀も追ってきた。はふ、はふ、と鼻先が触れ合う距離で荒い息を交わして、口を利くこともできない。雲雀が、熱に浮かされた顔で綱吉を見る。二人とも、同じ顔をしている。

 ひた、と鳩尾に置かれた手が、そのまま下へ下へと這っていって、綱吉は、ひゅ、と息を詰めた。粘膜を擦り合わせて、身体が反応している。綱吉も震える手を伸ばして、雲雀の黒いスラックスの中心へ触れた。服が、皮膚があるのがもどかしい。粘膜で触れ合える場所が口腔以外にもまだある。そこを見せ合って、触れ合わせることに、抵抗はなかった。熱くて、苦しくて、幸せだった。


 翌朝早く、学校へと向かう綱吉の足取りはおぼつかなかった。というよりも、浮き足立っていた、と言う方が正しいか。下半身の、口にするにははばかられるところが痛くて、それはもちろん歩きにくいのだが、昨夜は起きていても夢を見ているようで眠ったのだか眠っていないのだかよくわからないし、あんまりにも嬉しくて地面に足がついている気がしない。リボーンや、奈々や、子供達、ビアンキにまで、家の者に散々、訝しがられたけれど、平静でいろと言う方が無理な話だ。いまも、どういう風の吹き回し?と、早起きを喜ぶより、むしろ不審がる奈々に見送られて、ぴょこぴょこと並中へ向かっている。

 明日の朝もここに来て、と耳元で囁かれた言葉。否やはない。一年生が朝練の準備をするグラウンドを横目に、校舎へ急ぐ。ひんやりした朝の風が、気持ち良く頬の熱を冷ましてくれる。

「おはようござ…………あれ?」

 やって来た応接室は、施錠されていた。人の気配がない。綱吉は、家光のお下がりの腕時計を見る。始業30分前、これは、勢い込んであまり早く着き過ぎて、雲雀に引かれたら悲しい、でも、せっかく雲雀に呼ばれた(呼ばれた、はずだ)のだから、ゆっくりする時間が欲しい、悩んで悩んで、せめぎあう気持ちに何とか折り合いをつけて、常識に外れない時間、を綱吉なりに考えた結果だ。以前山本にきいた話によれば、真冬でも、服装検査のない日でも、朝練が始まる頃にはとっくに、応接室に人の出入りがあるのが見える、ということだから、学校に来ていない、ということはないと思うのだが。校内、どころか、並盛町内を、一手に治める雲雀のことだ、もしかしたら何かで呼ばれて、防犯のために施錠して出て行ったのかもしれない。とにかく、ここで待っていれば確実だろう、綱吉は、扉の前でしゃがみ込んだ。寝不足と腰のだるさに立っていられなかった。まさかとは思うが、雲雀も眠れなくて、ありえないことだとは思うけれど、遅刻しそうとか、そんな風に考えて、オレってうぬぼれてる!顔を隠して、うふふふ、と笑ってみたりした。扉にもたれて、膝を抱えて、足音がするたびにはっと顔を上げ、全く関係ない生徒が通るのを見送っては、そわそわしている自分に照れ笑いする。

「雲雀さん、まだかな」

 どきどきする。緊張する。でもそれも嬉しい。立ったり座ったり、廊下の向こうを背伸びして見渡したりしているうち、10分、20分、時間は過ぎた。予鈴が鳴る。雲雀は現れない。もう、教室へ向かわなければ、遅刻になってしまう。今までは、雲雀に会う口実のために、遅刻でもぐしゃぐしゃの服装でも何でもしたけれど、これからは、雲雀に嫌われないように、そういうことはしないようにしなくてはいけない、と綱吉は明け方、ベッドの上で固く決意したばかりだった。
 仕事が長引いているのかもしれない。いくらなんでも、雲雀が学校を休むわけがない。綱吉は立ち上がると、また休み時間に来たらいい、と小走りに教室へ向かった。

 時間を見つけては応接室へ走った。一度目は、施錠はされていなかったが、そっと扉を開けた途端、応接室いっぱいにそろった風紀委員が一斉に綱吉を見て、走って逃げ出した。雲雀は居なかった。二度目は、草壁と校務主任がなにやら口論していて、綱吉を見咎めた校務主任に怒鳴り散らされた。雲雀は居なかった。三度目は、応接室には誰も居なかった。蛍光灯がつき、デスクの上には湯気を立てるティーカップがあって、ついさっきまでは人が居た、そんな空気が残っているのに、綱吉に許された時間いっぱいまで待っても、雲雀は帰ってこなかった。そのうちに放課後になって、もう一度行ってみれば、消灯され、施錠され、応接室は無人だった。

 今日は一日、クラスメイトのお喋りに耳をすませていた。雲雀が登校しているのは確かだ。風紀委員が走り回らなければならないような、何か事件があったのだろうか。そんな噂は聞こえなかったが。物言わぬ扉をそっと撫でて、うつむいて、それから、雲雀さんの顔を一度も見られない日なんて、今までだってざらにあったじゃないか、忙しい人なんだから、と自分の落ち込みを情けないと笑い飛ばして、綱吉は走って家に帰った。もしかしたら、と一晩窓は開けておいたけれど、雲雀は来なかった。明け方の空気は寒く、薄い夏掛け布団の中で、綱吉は自分を抱きしめた。

 翌朝、綱吉は前日より10分早く、応接室を訪ねた。やはり、施錠されていて無人だった。寒くもないのに、何故かぶるりと震えて、綱吉はぎゅっと膝を抱えてその場に座り込んだ。雲雀の手はあんなに熱かったのに。昨日と同じようにどきどきしながら雲雀を待った。顔を出しそうになる不安を押さえつけながら、足音がするたびに顔を上げて見回したけれど、予鈴が鳴っても、雲雀は姿を見せなかった。

 クラスメイトの雑談を、必死に拾う。雲雀がいつも通り登校しているのには間違いない。風紀委員が関わる大きな事件の話も聞かない。どうして、と恨みがましい気持ちになりそうで、心に必死にふたをする。だって、雲雀のあの目は信じられた。分け合った熱は幻ではない。綱吉の身体はまだ痛む。会いたい、とただ願う。その想いもむなしく、学ランの裾すら綱吉の視界には入らない。

 三日目、眠れない夜が三日続けば、もともと色白の綱吉の顔色は、蒼を通り越して土気色だ。それでもさらに10分早く家を出た。校門前では所持品検査をやっていた。どの列にも均等に生徒が並んでいる。雲雀はいない。ふらふらと校門をくぐって、行きたくない、と心のどこかが囁くのを無視して、応接室へ向かう。扉は閉じている。待つのが恐くて、うろうろと行ったり来たりする。雲雀は現れない。始業まで、まだ30分はあった。校内のどこかに居るのなら、探しに行こうか。探して、見つけて、雲雀さんがそんなに忙しくてオレは心配ですって、笑って言って。気がつけば、走り出していた。雲雀が居そうなところ、校舎の裏、体育館脇、昇降口。あの日の身体の熱が、記憶が、薄らいでしまいそうで、繋ぎとめるように自分の身体を抱く。雲雀を抱きしめた感触とは違って、力を得る。あれは、本当のことだ。

 綱吉が思いつく中で、雲雀の居そうな最後の場所、屋上へ続く階段の前で、丸二日ぶりに雲雀と出会った。ほ、と唇を緩める。顔を見れば不安など飛んでゆく。

「雲雀さん、」

 声をかけた綱吉の前で、屋上への階段を上ろうとしていた雲雀は、上げかけていた足を下ろすと、ぱっと身を翻した。そのまま、綱吉がやって来たのと反対方向の廊下を走り去って、角を曲がって姿が消えてしまう。

「え?」

 何が起こったのか理解できずに、学ランの後姿を、ぼんやりと突っ立って見送った綱吉は、雲雀の姿が見えなくなると、よろよろと屋上に向かって階段を上った。信じたくない、けれど、今目の前で起こった事実は一つだ。ぎい、と重い扉を開ける。朝の空は鮮やかに澄んで、晴れ渡っている。

 雲雀は、綱吉を避けている。

 青空の下で立ち竦んだ。床の上の書類、その上で、てのひらを重ねて、見つめ合って揺れた瞳は嘘ではなかった。絡めあった舌の、綱吉を求める情熱も本当だった。不器用に身体を交わした後で、歩くのもおぼつかなくなった綱吉を支えて、ゆっくり家まで送ってくれた雲雀は、優しかった。

 では、何故なのか。

 家に帰って、一人になって、勢いのまま綱吉と結ばれたことを、雲雀は後悔したのだろうか。シャツの胸を、ぎゅっと掴む。息が苦しい。同性同士、粘膜を触れ合わせて、不毛だと、気持ち悪いと、嫌悪を抱いたのだろうか。

「っ、く、」

 動悸が激しい。頭が痛い。胸が痛い……胸が、苦しい。

 京子を好きで、告白をして、全校生徒から身の程知らずとあざ笑われ、なじられ、誰もが綱吉を否定した。それでも、こんな気持ちにはならなかった。綱吉は慣れきっていた。指をさされること、馬鹿にされること、昨日気まぐれに話しかけてくれたクラスメイトに、今日は空気のように扱われること、綱吉の世界は、ほとんどがそんな出来事でできていたから。

 けれども今は。あれから、京子も含めて、友達といえる人も増えたのに。理由もわからないまま、たった一人、雲雀に避けられることが、痛みを感じるほど悲しい。一度は確かに気持ちが通い合った、その幸福な記憶があれば、余計に苦しい。立っていられなくてがくりと膝を着く。

「ど、して?」

 うつむけば、白く乾いたコンクリートに、ひとつ、ふたつと水滴が落ちた。涙だった。






2010年6月19日