その日からも、綱吉は、休み時間を雲雀を探すことに費やした。まだ、何も、雲雀の口から直接聞いたわけではない。目を見たわけではない。綱吉の頭の中で、想像しただけのことだ。本当は、何か理由があるのかもしれない。
息を殺す。気配を消す。雲雀に綱吉の存在を悟らせないように、待ち伏せる。ここまでしなければ顔を見ることもできないなんて、嫌われた以外の何があるというのか、そう思う気持ちを押し込めて、雲雀を待つ。
待ち続けて、週が変わって、やはり、彼を出し抜くなど無理なのか、そう思い始めた頃、目の前に雲雀が現れた。屋上へと続く、階段の前だった。
「つな……、」
その時、綱吉を見る雲雀の目が嫌悪を表していたならば、もう雲雀を追うことはせず、とぼとぼと家へ帰って、泣き通し、あの幸せな日のことと、雲雀本人のことも、もう忘れようとしただろう。けれど、真っ黒の瞳に映っていたのは、怯えと悲嘆だったので。
「っ、雲雀さんっ!」
さっときびすを返した雲雀を、綱吉は全力で追いかけた。もとより、勝負は見えてはいるけれど、雲雀のことに関して、綱吉は譲るつもりはない。脚がちぎれてもいい、肺がつぶれてもいい、ただ「死ぬ気」で、雲雀を追いかける。
修行の成果もあるのか、距離が縮むことこそないけれど、引き離されたり、見失ってしまうこともない。廊下の突き当りを、雲雀が曲がる。その後を追って曲がって、そして、
「あ…………!」
その先は階段だった。もちろん綱吉だって知ってはいたが、すっかり冷静さを欠いた今は、頭から飛んでいた。足が空を踏む。がくん、と前にのめる。階段の真ん中あたりへ叩きつけられてそして、どたんばたんと転がって落ちた。びたん、と踊り場に衝突して、押し潰された肺から、ぎゃん、と蹴飛ばされた野良犬のような悲鳴が漏れた。全身が痛い。手足が動かない。鼻から口にかけて、何かしょっぱいもので濡れている気がする。けれど、立って、走って、早く雲雀を追わなければ。そんな顔をするわけを、教えて欲しい。
「綱吉っ!!」
一度は遠ざかった足音が、ばたばたと戻ってくる。打った頭に響く。悲鳴のような雲雀の声が、呼んでいる気がする。立って、早く、追って、雲雀を、朦朧とした意識のまま、立ち上がろうと腕を床について、そこで綱吉は気絶した。
目を覚ましたとき、綱吉は自分が一体どうなったのか、よくわからなかった。ぱち、とまぶたを開けて、目を刺した蛍光灯の明りに、顔をしかめる。その動きで、頬や上唇が引き攣れる。何かが貼り付けられている。
「つ、つなよし、」
ふと、顔の上に影ができて、まぶしさがやわらいだ。泣きそうな顔の雲雀が、綱吉を覗き込んでいる。そこで、はっと気を失う前のことを思い出して、雲雀が逃げないように捕まえようと思ったが、身体を起こそうとした途端、身体中あちこちが鋭く痛んで、綱吉は悲鳴を上げた。
「ああ、急に動かないで、いっぱい怪我してる」
肩にそっと手を添えられ、ゆっくりと身体を起こす。そこは、応接室のソファの上だった。つんとした消毒液のにおいが満ちていて、絆創膏の紙や、滅菌済みガーゼのパッケージ、包帯やはさみなどがそこら中に散乱している。起き上がった綱吉を見て、雲雀はほっとした顔になった。
「雲雀、さん、」
何を言ったらいいのかわからなくて、名を呼ぶ。するとその人はくしゃっと顔を歪める。でも、逃げはしなかった。綱吉を、嫌悪の瞳で見ることもなかった。
「雲雀さんに、訊きたいことがたくさんあったんです。でも……」
そこで一度言葉を切って、乾いた唇を舐めると、口の中が消毒液のおかしな味になって、綱吉は後悔した。
「……あの日の、次の日。オレ、朝、授業が始まる前に、応接室へ行きました。雲雀さんが来てって言ってくれたし、オレも雲雀さんに会いたかったから。…………雲雀さん、どうして、いなかったんです、か?」
どうしようかと考えたとき、訊きたいのは、これしか浮かばなかった。あの時の、雲雀が不在だった理由が、きっと全ての理由になるのだろうという予感がしていた。答えを求めて、じっと見つめる。黒い瞳が揺れる。いつもはきりっと吊り上がっている細めの眉が、ぎゅっとハの字に寄る。
「あ、あの日、」
おどおどと雲雀は口を開き、しかし話し出すと、止まることなく一気に喋った。
「綱吉を、家まで送っていって、僕も帰った後、一人になったら、色々考えた。……僕は、君に好きっていわなかった。君も、……君に触ってたときは、あんなに確かだったのに。君の目を見たとき、絶対に同じ気持ちだって思ったのに。離れて一人になったら、なんだか本当のことだと思えなくて、それで……あれはみんな僕が見た都合のいい夢で、朝が来てまた君に会ったら、本当に同じように僕を見てくれるのか、だって、綱吉は、僕のことを恐がってたじゃないかって、どんどん恐くなって。やっぱりあれは気の迷いだったなんて、君が後悔してたら、避けられたら、そうでなくても、僕はこんな人間だから、そのうちに嫌われたらどうしよう、いいや、絶対に嫌われるって、そう思ったら、もう会えなくて、一緒に過ごして思い出が増える前に、綱吉に好かれてるまま、もう会わないほうがいいんじゃないかって、」
それはつまり、雲雀が恐れていることはみんな、あの日の朝から雲雀が綱吉にした仕打ちと、どこが違うのか。
「…………っ、ばかっ!!」
激昂した綱吉は、身体の痛みを忘れた。ソファから、床に立ち膝になっていた雲雀に掴みかかると、引き倒して馬乗りになり、ぱん、と平手で顔を殴った。一発ではとてもおさまらなくて、二発、三発と続けて張った。
「馬鹿、馬鹿っ、ひばりさんの、馬鹿っ!」
あの日、浮き立った綱吉は、幸せな未来を想像していた。明日からは二人でお昼を食べて、登下校をして、一緒に勉強したり、休日は遊びに行って、ついさっきしたように、身体を触ったりもして。高校ももちろん、同じところへ行きたい。受験勉強のためなら、リボーンに鍛えられるのだって嫌がらない。信じあって、並び立って、その先の未来も、雲雀が居てくれるなら、何だってできる。同じ時、雲雀は、何という悲しいことを考えていたのか。
確かに、好きだとは言われなかったし、言わなかった。けれど、雲雀の燃える目は信じられた。皮膚よりももっと内臓に近いところで触れ合った。綱吉だって、夢みたいだとは思った。でも、目の前に雲雀がいないからと言って、あの熱を忘れるほど弱くはない。なりたくない。
結局、雲雀は、綱吉の目を、唇を、身体の中で触れ合った熱を、これっぽっちも、信じてはくれなかった。
それが裏切りでなくて何だと言うのだ。
「ばかっ!ひきょう者!ろくでなし!」
胸倉を掴んだ手を、左右に引いた。ボタンが飛んで、シャツが裂けて、アンダーシャツを着ない雲雀の上半身が露になる。綱吉にもこれくらいの力はある。
「ひばりさんなんか、ひばりさんなんか、」
正直なところ、あの日の性交は、受け入れる側になった綱吉にとっては、身体の快楽は全くなかった。むしろ大きな苦痛で、しばらくは日常生活にも支障をきたした。それでも、人間にできる一番深い触れ方をしている、という精神的な充足感が、綱吉に幸福をもたらした。雲雀が、ああやって綱吉に触れている間しか、綱吉のことを信じられないと言うのなら、それなら、死ぬまでここで交わっていればいい。そんな気持ちで、雲雀の衣服に手を掛ける。
「ひばりさん、なんかっ、……き、きら、」
スラックスを脱がそうと、ベルトに手を伸ばす。ウエストをぐいと引っ張って、結局、ぱたり、と力なく手は落ちた。
「き、きらい、きらいに、なんて、っなれないよぅ…………」
酷い人だ。人の気持ちのわからない人だ。それでも綱吉の口は、嫌いという言葉を、嘘や勢いでさえ言おうとはしない。途方に暮れたように呟いて、そのまま両手で顔を覆って嗚咽を漏らしながら静かに泣き出した綱吉を、床に倒されたまま呆然と見上げていた雲雀の顔が、見る間に蒼くなった。慌てた様子で身体を起こす。
「ご、ごめ、ごめんなさい、」
腰に跨ったまま泣きじゃくる綱吉にすがりつくように、ぎゅうと抱きしめる。おろおろと謝罪を口にする。
「ごめんなさい、綱吉、ごめん、許して、つなよし、」
あの日綱吉が想像したような、幸せな未来は存在しないのだろう。雲雀と共に居たとして、間違いなくこれから先、似たようなことを繰り返す。目に見えないものを信じられない、そういう人なのだ。綱吉の直感ははずれない。
「ひばりさんのばか、ばかぁ」
それなのに、雲雀のいない未来を、綱吉はどうしても選べない。自分の馬鹿さ加減にめまいがする、それは綱吉にはよくあることだったが、これが今までで一番の、そしてこの先もないような、深い絶望だった。
「綱吉、綱吉、ごめんなさい、好き、」
「っひ、ばり、さん、……っ、オレも、好き……」
涙に濡れた顔を、雲雀が拭ってくれる。柔らかく降ってくる唇を顔中に感じながら、綱吉は、この先ずっと重い鎖に縛り付けられた、自分と雲雀の未来を思っていた。
これで終わりです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
2010年6月20日
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