ふうわりと、黒のひだが揺れる。視界の端にそれを捉えて、綱吉はぱっと首をめぐらせる。校内にたった一人しか存在しない、モノクロームのセーラー服。目で追ってそして、わずかに眉を寄せる。
「雲雀さん、」
今日の授業は全て終わって、校内は喧騒にあふれている。そのざわめきの中で、まだ少年の甘さを持つ綱吉の声が教室の中からまっすぐ飛んで、廊下を過ぎる白線の入った大きな襟を引き止める。なぜあんなやっかいな人間を呼び止めるのか、室内は、怯え、嫌悪、そして数秒後に起こるであろう惨劇を待つ意地悪な視線、そんなもので溢れるが、ただ黒いセーラーだけを見ている綱吉の視界には入らない。
「それ、持ちます。応接室?職員室ですか?」
事態を見物していた生徒たちの間に、困惑が広がる。雲雀は、つづり紐で綴じた何か資料のようなものを、何冊か両手で抱えて歩いていた。並中どころか、並盛町自体の、政治に深く関わっているという噂の雲雀が、書類を抱えていることなんて良くあることだったし、もちろん、それを手伝おうという者なんて誰もいない。沢田綱吉だって、今までにそんなことを言ったことはないはずだ。
すたすたと雲雀に近寄っていた綱吉に、余計なお世話だと早速トンファーが取り出されるか、と息を潜めてうかがう2−Aの生徒の前で、雲雀は、む、と唇をへの字に曲げた。
「いらない、」
しかし、対抗するように同じく、む、と唇をへの字に曲げた綱吉の強気の態度に、見物人に動揺が走る。
「い、いらなくないです。貸してください、」
半ば奪い取るように紙の束を取り上げられ、もう一度、応接室ですね?と訊ねられれば、雲雀はむっとしたまま、しかしこくりと頷いた。
「内ポケットにカイロが入ってますから、使ってください」
口調こそ丁寧だが、まるで命令するようで、今度こそトンファー、と思った観客の前で、雲雀は、ぷ、と子供のように頬を膨らませて、両手のふさがっている綱吉の制服の内側に、しなやかな白い手をすべりこませてそっと探った。厳しかった綱吉の顔が少し緩んで、ふ、とくすぐったそうに唇が笑みを刻む。感受性の豊かな女生徒が何人か、微かに頬を赤らめる。
「……あったかい」
「よかった。」
応接室を目指して、足早に二人が遠ざかる。あとには、何が何だかわからない、といった様子の観客だけが、取り残されている。
「どうして君はいつも気がつくの、」
綱吉からもらった使い捨てカイロを、両手の中に閉じ込めたり、頬や鼻先に当ててみたり、熱を堪能しつつも、風紀委員長は唇を尖らせる。いやらしい、という不名誉な言い草には、年頃の少年としてむっとしないわけではないが、気恥ずかしさを隠しているのと、月に一度、避けることのできない不調の八つ当たりもあるのだろう。つまるところ雲雀は、生理中なのだ。
「だって顔色が悪いですよ」
雲雀はもともと色白であるが。
「先週くらいから何だかいらいらしているように見えたし」
いつだって些細なことでトンファーを振り回す雲雀が、いつ機嫌が良くていつ悪いかなんて、気にする者はあまりいない。
「それに昨日、紙コップのあったかいココア、飲んでたでしょう」
雲雀は普段は応接室の給湯で淹れた、緑茶だとか紅茶だとかを飲んでいるから、そんな甘ったるいものは滅多に飲まない。鉄分補給のためでもなければ。だが、鬼の風紀委員長が魔の応接室で普段何を飲んでいるのかなんて、生徒の誰が知っているだろう。また、知りたいとも思わないだろう。
綱吉にしてみれば、気がつかざるを得ない材料が豊富にあって、そのうえで無理に平静を通そうとする雲雀を、心配する気持ちから咎めてしまうのであるが、それは綱吉にしか拾えない材料であって、だから雲雀は、誰にも気づかせたことのない不調を、目の前の少年が何かチート的な要因でもって知っているような気がしてしまうのだ。なんとなく、彼が女親と二人っきりで過ごしてきた過去の年月のことを考えてみる。
応接室について、両手のふさがった綱吉がごとごとと不器用に扉を開けるのを、ぼんやりした雲雀は黙って見ている。綱吉はますます心配になった様子で、半ば蹴飛ばすように足で、暖かい空気の満ちた応接室への扉を雲雀の前に開いた。
明かりのついていない薄暗い室内では、今時珍しい白い筒型の石油ストーブ(ファンヒーターではない)が雲母のむこうに揺らぎもしない青い炎を灯していて、上に乗せられたやかんがしゅんしゅんと鳴る音だけが静かに響いている。暖かい部屋、自分の縄張りに入って気が緩んだのか、雲雀は常のようにぴんと伸ばした背筋を、腹部を庇うように猫背に丸めると、ふらふらとストーブに近づいて手をかざした。慌てて、デスクの上へ書類を置いた綱吉が、応接セットの黒いソファをずりずりと引きずって、ストーブ前に特等席を作る。雲雀は吸い込まれるように倒れこんだ。躍動する骨格と筋肉と、鋼鉄のトンファーの一対を隠しているはずの身体は、しかし黒い革生地の上で、ぽすん、と頼りない音しかたてず、綱吉を不安にさせた。
「おなかいたい」
綱吉に訴えたというより、ただ呟いただけの小さな声で、あとは目も口も、きゅっとつぐんでソファの上で胎児のように丸くなる。暗い部屋の中をきょろきょろと見回せばデスクチェアには暖かそうなウールの、チェックのひざ掛けが畳んで置いてあって、綱吉は急いでそれを持ってくると、雲雀の身体をそっと覆った。厚手の生地を口元まで引き上げて、もごもご、とまったく聞き取りにくい声でノイズのように囁かれたのは、気のせいでなければ感謝の言葉のはずだ。綱吉はやっとちょっと笑って、ソファの近くへちょこんとしゃがんだ。
「薬は、」
「さっき飲んだ」
「じゃあもう効きますね」
「だといいけど、」
「効きますよ。もう痛くなくなります」
「……うん、」
「オレ、いない方がいいですよね。帰りますから」
「うん、…………………………ううん、」
腰を上げかけた綱吉に、随分と間があって否定する言葉がかけられて、驚いてぱしんとひとつ、まばたきをした。雲雀はもぞりと頭までひざ掛けの中に隠れて、しゅんしゅんと微かに音を立てるやかんの湯気よりもちいさな声で、綱吉を引き止めた。
「いたほうがいい」
何と答えようか迷って、何と答えても怒られそうだと思った綱吉は、口はつぐんだまま、おそるおそる手を伸ばして、雲雀の頭があるだろうと思われる部分のひざ掛けの膨らみを、そっと撫でた。ほう、と安心したようなため息がウール地の向こうから聞こえて、綱吉こそほっとして息を吐いた。かたかたと、ストーブの上のやかんのふたが鳴っている。
息を吸って膨らみ、吐いては沈み、規則正しく上下していたウールのチェック柄がふと止まって、雲雀のまぶたが、ぱち、と開いた。深海から潜水艦が上がってくるような目覚め方だと綱吉は思った。もちろん、彼はそんなところを実際に見たことがあるわけではなかったが。何度か黒いまつげが上下して、真っ黒の眼球がきょろきょろと動いて、ひた、と、雲雀の顔が見える位置でストーブにあたっていた綱吉を視界におさめた後、満足そうに、うん、と伸びをした。暗くなった部屋の中で顔色は相変わらず悪かったけれど、背を伸ばす仕草は随分軽くて、綱吉を安心させた。
「……いたくなくなってる」
不思議そうな声だった。
「薬効いてよかったですね。あっつい紅茶飲みますか?」
「のむ」
雲雀は身体を起こして、ソファにちゃんと座った。ひざ掛けを腰に巻くようにして、くしゃくしゃになった髪を鏡を見ることもせずにさかさかと直した。綱吉はストーブの上から熱いやかんをとると、給湯スペースまで持っていって用意しておいたふたつのマグカップに熱湯を注いで、そこではじめて、紅茶の色もわからないほど室内が暗くなっていることに気づいて、やかんを流しに置くと、戸口まで行って明かりをつけた。ぱちぱち、とまたたいて、蛍光灯が青白い光を落とす。まぶしそうに、雲雀もぱちぱちとまばたく。マグカップの中にはティーバッグが一つずつ入っていて、熱湯の中でじわじわと抽出されている。カップもティーバッグも、戸棚から勝手に拝借したものだが、雲雀は何も言わなかった。
「どのくらい寝てた?」
「そんなにじゃないですよ。40分くらい」
雲雀はふらりと立ち上がると、デスクの引き出しからポーチを取り出して応接室から出て行った。綱吉はすっと目をそらした。雲雀が何をしようとしているのか気づいた時の、視線の逃がし方と無関心の装い方があまりにも自然で、雲雀は、ああ、沢田綱吉はきっと、大人になったら女の子にとても好かれるだろう、と手洗い場の鏡の前で考えた。ぷるぷると首を振った。
デスクの上で紅茶が湯気を立てている。戻ってきた雲雀はポーチを引き出しにしまうと、そのままチェアに座って紅茶を飲んだ。ふうふうと冷まして、少しずつ。綱吉は、元の場所に戻したソファに座って、雲雀さんって猫舌?と思いながらも、黙って、やっぱり少しずつ熱い紅茶を飲んでいる。
「もう真っ暗だ。遅くなって、悪かったね」
窓の外を眺めて、雲雀が言う。風紀委員長の前で言いにくいが、普段だって、獄寺隼人と寄り道、買い食いをしたり、山本武の部活を見に行ったり、このくらいの時間になるのはしょっちゅうだ。だから綱吉は、大丈夫です、とだけ言って、後は言葉を濁した。
「これ飲み終わったら、帰ります」
「……ぼくもそうしよう」
綱吉は、それがいいですよ、と思ったけれど、何だか偉そうな気がしたので、黙っていた。
かちん、と雲雀が応接室に施錠をする。草壁さんは?と綱吉が訊けば、今日は外回りの取締りの後、直帰だということだった。報告は携帯にメールで入ると言われれば、感心するしかない。ただ、こんな時こそ草壁を傍において頼ればいいのに、と思い、体調が悪いからといって部下にそれを素直に打ち明けて頼る雲雀なんて想像しにくい、とも思った。
綱吉は荷物を取りに行くため教室へ戻り、すぐに帰るのかと思った雲雀もついてきた。雲雀がなぜそうしたのかは綱吉にはわからなかったが、冷え込んだ真っ暗な校舎は臆病な綱吉には少し恐くて、雲雀がいるのは心強かった。少し情けなかった。
そのまま二人で昇降口まで歩いた。ふと、綱吉は、雲雀用の下駄箱というものが存在するのだろうかと疑問に思った。ホームルームどころか学年すらわからない彼女が、どこに靴をしまっているのか、知らない。ちらりと視線を投げると、雲雀はすぐに気づいて、なに、と低い声で言った。緑色の、非常口の灯りをうつして、顔は沈むような蒼だ。ブレザーと違って大きく開いているセーラー服の襟元から、すうっと白く伸びる首筋が、普段は凛とした佇まいなのだけれど、こんな日にはただもう寒々しい。綱吉は、とりあえず下駄箱のことは放っておいて、手に持っていた、今週から使い始めた防寒用の自分のマフラーを、ぐい、と雲雀に突きつけるように差し出した。
「これ、巻いてください」
「どうしてさ、」
ぎ、と尖った視線に怯みながら、手を引っ込めることはしない。
「さ、寒そうだからです、」
「別に寒くない」
「そんなわけ、」
「寒くないって言ってる」
押し問答になる。綱吉には雲雀がここで「寒くない」と粘る意味がわからない。雲雀は雲雀で、弱みばかり見せるのは嫌なものだから、意地になる。
「見てるほうが寒いんです、」
「じゃあ見なきゃいいじゃない」
「雲雀さんを見ないでいるのは、難しいです!」
すとん、と沈黙が落ちた。じわじわと二人に言葉が浸透して、お互い気まずそうに顔をそらして、少し赤い顔で咳払いをした。そして、綱吉は自分が言ったことの意味には気づかなかったことにしたし、雲雀は聞こえなかったふりをした。
「……巻くから、貸して、それ」
「は、はい、どうぞ。返すのはいつでもいいですから、」
「じゃあもう返さない、」
「えええ、」
綱吉が困ったように眉を下げて、雲雀が軽く笑えば、それでもう本当に、さっきの言葉は二人の中にはなくなってしまった。
「雲雀さんって、何年何組なんですか?」
「ぼくはいつだって好きな学年だよ」
雲雀がローファーを取り出したのは、下足室の隅の、何の名札もついていない、空いた下駄箱だ。もしかして、と綱吉は思う。校内の全ての出入り口に、上履きとローファーを置いているのではないだろうか。多分、そうに違いない。うんうんと頷きながら外に出ると、思わず震え上がるほど寒くて、やはりマフラーを雲雀に貸したのは正解だ、と思った。
「月が出てる」
手ぶらの雲雀は(綱吉は、雲雀がかばんを持っているところを見たことがなかった)ふわふわと普段より儚い足取りで、白い息を漂わせながら空を見上げた。まさかとは思うが、転ぶのではないかと、綱吉は内心ひやひやとしながら雲雀の足もとを見ていたので、当の雲雀に焦れたように促されるまで、そのうつくしい空を見上げなかった。
「ほそーいよ、猫の爪みたい」
綱吉は校庭の真ん中で立ち止まって、雲雀も立ち止まったのを確認してから、空を見上げた。吐いた息が一瞬、視界を曇らせてから空に向かって消えた。漆黒にはまだ早い、紺青、群青、ぐっと下がって、西の下の方にはまだ赤みの強い橙色が残っている。雲はなく、一番星を筆頭に小さな輝きがちかちかと瞬きはじめ、その中に、雲雀の言う「猫の爪みたい」な、細い月がかかっている。
「三日月よりも、細いですね」
「うん、二日月だ」
欠けたところばかりの月は、雲雀のように鋭角で、儚く、美しかった。
「食べたらきっと、檸檬の味がするよ」
「ええ?」
そう言われて眺めてみれば、確かに、月はレモンイエローだったが、あんなに美しいものを口にするのは、きっと人間ではない何かだろうという気がした。
「砂糖衣で、しゃりしゃりして、冷たくってすっぱいんだ。食べてみたいな」
気づけば綱吉は、自分が貸した、雲雀が巻いているマフラーの端を、ぎゅっと掴んでいた。
「何さ。殺す気?」
月を食べたがる雲雀が気に入らなくて、けれどそれをどうしても上手に伝える言葉が見つからずに、綱吉は口を開けたり閉じたりする。
「……あ、の。月は。月は、冷たそうだから。お腹壊します。だから、食べないでください、」
「何言ってるの、」
真剣な調子で訴えた綱吉に、そもそも食べられるわけないじゃないか、言ってみただけだよ、と、呆れた風でもなく、ただ可笑しそうに笑う雲雀に、それでも不安の消えない綱吉は、慌ててごそごそとポケットを探った。
「これ、で、我慢してください。月は、食べないでください」
つかみ出したのは、檸檬味ののど飴だ。真ん中に、しゃりしゃりと冷たい薄荷味がはさまっている。差し出せば、雲雀は素直に上を向けててのひらを開いたので、そこにぽとりと落とした。
「校則違反、」
ちろり、と上目遣いに見上げてくるのに、う、と詰まる。昼間、京子に貰ったものだが、そんなことが言えるわけもない。
「でもいいや、今日は。見逃すから、紙むいて」
手のひらののど飴を綱吉につき返して、けれどいらないのではなく、個包装を破ってほしいと言う。
「さっきハンドクリーム塗っちゃったから、飴に触りたくない」
つまり個包装を破って、中身を直接口の中へ入れろ、と雲雀は言っているのだ。そのことに思い至って、綱吉はやたらと緊張して、黄色の包装を破って、透き通ったレモンイエローと白の、今日の月に似た味のするのど飴を、指でつまんで差し出した。
「ん、」
雲雀の顔が、綱吉の指に近づく。綱吉は息を止める。雲雀も息を止める。指に触れない、ぎりぎりのところで、かぷ、と唇がレモンイエローを挟んだ。指がそっと離れて、唇もそっと離れる。ほ、と安堵の息を吐いたのは、どちらともだ。
「檸檬味、」
両手で頬を押さえて、嬉しそうにふふふと笑う雲雀はもう月を見なかったから、綱吉は安心した。
「じゃ、また明日」
「はい。……気をつけて、帰ってください」
「君こそ、気をつけて帰りなよ」
校門を出てしばらくして、雲雀の家と、綱吉の家と、道が変わる角のところで二人は別れた。綱吉が雲雀を送っていくほど、二人は親密ではなかったし、雲雀も弱くなかった。であるにもかかわらず、「また明日」と言ったあと二人はしばらく、お互いの顔を見たまま黙って立っていた。それは十秒だった気もするし、十分だった気もした。
さっとマフラーの端をなびかせて、雲雀が背を向けて去った。綱吉も、家へ向かって歩き出した。晩秋の冷え込む夕暮れに、別々に家路を急ぐ二人を、まだ満ちるまで遠い月がどこまでも追いかけていった。
2010/11/19
満ちるまで十年かかる月。
(女の子から貰ったものを別の女の子にあげてしまう沢田さんはひとでなしなのでなく子供なのだということでひとつ) |