いつもの終業時間よりも少し早い夕方、曇り空も夜までもつかと楽天的に考えていたが、黒い雲から絞り出されるように降り出した雨に、綱吉と獄寺は哀れな悲鳴を上げて近くの商店の軒下に逃げ込んだ。
「ごめんね獄寺君。帰るまでは降らないと思ったんだけどなぁ」
「そんな!十代目が謝るようなことじゃあありません」
ウールのスーツの肩口にいくつも転がる水滴をぴっぴっと指で払って、髪が肌に張り付くほどでもなく雨を浴びた頭をぶんぶんと振った綱吉に、獄寺が自分の懐から出したハンカチを差し出した。
「えっ、いいよ、獄寺君、自分で使って?オレもハンカチ持ってるし、」
手を洗った後に面倒がってハンカチを使わない子供のような自分の不精に照れて綱吉は、少し赤い顔の前で手を振って、綺麗にアイロンがかけられたリネンのハンカチを押し戻した。獄寺が安心するように、スラックスのポケットから、よれたハンカチを取り出して、つうっと一筋、雨粒の滴った頬を拭って見せた。
「雲雀さんが時々、ハンカチは持ってるかとか、ネクタイは曲がってないかとか、歯に海苔がついてないかとか、抜き打ちの身だしなみ検査するんだよね、中学生の時から」
不合格だと後が怖いからとりあえずは持ち歩く習慣はついたよ、使わなきゃ意味ないけどねぇ、と眉を下げて苦笑する綱吉に、獄寺は、ヒバリのヤローなんなんすか、十代目の妻気取りですか、右腕の地位は渡さねえ、と憤慨した。
「えっ妻なんてそんなむしろオレが妻っていうかなれたらいいなっていうか、」
「十代目、そこ照れるところでものろけるところでもないッス、」
仕事の帰り道だった。珍しく夜の予定は詰まっておらず、供の獄寺と二人で、徒歩と電車で帰るからいい、と送迎の車を帰らせ、学生時代のように、通りにある店をひやかしたり、チェーンのコーヒーストアで甘い飲み物を飲んだり、そんな風に過ごしていたところだった。
「電話で誰か呼ぼうか、」
「十代目がお急ぎでないなら、もう少し待たねっすか?」
仕事の帰りでスーツ姿だったが、獄寺と二人だけでゆっくり街を歩くなど、本当に久しぶりのことだった。綱吉も、もう少し遊んでいたい、と思っていたのは同じだったから、出しかけた携帯電話をまたしまって笑った。そのまま八百屋のシャッターの前に並んで、黙って二人、暗い空を見上げた。
綱吉はともかく獄寺は、整った顔に似合いのスーツ、いつもならこんな街中に突っ立っていれば、声をかけられることはなくてもちらちらと視線を投げられるのが常なのに、夜も近くなって降り出した冷たい雨に、傘を広げて、またはカバンを掲げて、家路を急ぐ人々の目には留まらないようだった。
「あ、ひかった」
「音もしますね、ビミョーですけど」
「さっすが、オレ音は全然わかんないや」
季節はずれの雷が、黒く染まった雲の一部を金と紫に点滅させた。音もなく(獄寺には微かに聞こえているようだが)、こうして雨を避けて眺めているだけならば、それは美しいものだった。けれど同時に、どこか不安を煽る光景でもあった。
今日、綱吉が獄寺と二人で出かけたのは、ボンゴレ並盛支部がマフィアの顔を隠している表の顔、中小企業の社長としての商談、と見せかけて、極秘の会談だった。会談と言うより、同盟ファミリーの年老いたボスがわざわざ来日して、綱吉にご注進、というのが正しかった。ミルフィオーレという、今まで誰も名を知らなかった、得体の知れないファミリーが暗躍しているらしい、と。
綱吉は元が臆病だから、油断することはあまりなかったが、もう長い付き合いの友人や先輩、ボンゴレ内の人間の能力については心から信頼していた。それでも、黒い雲の隙間を縫って天を駆ける竜のような雷光を見ていると、これから何かが起こる、という、気味の悪い予感のようなものが、足元から這い上がってきて、頭の中に居座ってしまう気がした。
「…………、………………tied up with strings,」
同じことを考えていただろうか、並んで空を見上げ、黙り込んでいた獄寺の唇から、ふと何かがこぼれ落ちた。小さなメロディ。綱吉はぱっと顔を獄寺に向けて、それからまた空の方へ戻し、自分も唇を開いた。
「……わたしーの おきにーいりー」
ふ、と獄寺が吐息だけで笑った。とんとんと指がリズムを取る。
「Cream colored ponies and crisp apple strudels,」
「ドーアーのベールーに おいしーい ディナー」
「Wild geese that fly with the moon on their wings,」
「みーんーな わたしーの おきにーいりー、」
日本語と英語と、ワンフレーズずつ入り混じった歌は、そこで柔らかな笑い声になった。
「子供の頃、雷を怖がってたら母さんが歌ってくれたよ。獄寺君は?」
「…………オレもガキの頃、」
雷が怖かった、と言うのが恥ずかしかったのだろう、獄寺は頭に手をやって照れて笑った。世界中に知られている古いミュージカル映画で、嵐の夜を怖がる子供達を、お気に入りのものを思い出せばどんな時も怖くない、と後に母となる家庭教師が宥めるシーンで歌われた歌だ。獄寺がそれを口ずさんだことで、綱吉は、やはり同じことを、暗躍している何かのことを考えていたのだ、と思った。
「獄寺君なら『バラの夜露 瓜のおひげ』だね」
「十代目は、ヒバリのトンファーとか言うんでしょう」
綱吉が歌詞をもじってからかうように歌えば、獄寺の反撃に遭った。中学生の頃ならいざ知らず、そのくらいのからかいにはもう照れもない。
「『光るトンファー ぽかぽかミトン』?どっちも積極的に親しみたいものじゃないなぁ、武器よりキスとハグがいいよ」
「……ヒバリのことのろけない十代目、」
「ふふ、獄寺君のピアノ。……あ、照れてる」
「意地が悪いッス、……ピアノなんて、言ってくださったらいつでも弾いてさしあげたのに」
「ほんと?って、なかなかそんな時間もないよね、獄寺君はいつも負担が多くて、申し訳ないと思ってるんだけど」
「オレに謝らない十代目、」
「うう、……山本の茶碗蒸し、」
「十代目のお母様のおでん」
「わー、母さん喜ぶよ」
何故か「私のお気に入り」合戦になって、お互いに好きなものを挙げていけば、冷たい雨の降る不安な夕暮れを束の間は忘れることができた。
「獄寺君が三時に持ってきてくれるおやつ、……食べるものばっかりだ」
今ちょっと雨の勢いも弱くなってるみたい、このまま走って帰りましょうか、ボンゴレの食堂でゆっくり晩ごはん食べよう、笑いあって、夜の始まりの街の中へ駆け出した二人は、身に纏った服以外、中学生の時と違うようには思えなかった。
世界はすぐに嵐になった。
綱吉は、多くの人目に触れるときにはいつも身につける、真っ白のスーツと、T世のような、じゃらじゃら装飾のある留め金をつけた黒いマント、つまり、ボンゴレ]世の正装を身につけて、車で指定された場所に向かっていた。
地球上にはどこにも、別の次元にさえ、逃げ場はなくて、ミルフィオーレ、千の花の、花弁を散らして嵐が吹き荒れていたけれど、会談に向かう車の中は静まり返って、世界中を巻き込んだ嵐が嘘のような気もした。
綱吉は、これから自分の身の上に起こることを考えた。そして、隣に座る右腕、いや、十年来の親友の顔を見た。獄寺は、スモークフィルムを貼った防弾アクリルガラスの向こう、目に見えない嵐を睨みつけているようだった。これから数時間後の彼のことを考えると暗澹たる気持ちになった。すべてを計画したのは綱吉自身であったのに。
「……ばーらーのよーつーゆ こねこーのおひげー ひーかーるーやーかーん ぽかぽーかミトンー リーボーンーむすびーの おくりーものー みーんーなーわたしーの おきにーいり、」
酷いことが、惨いことが、たくさんあった。なにひとつ止められなかった綱吉の唇はもう、ずいぶん長いあいだ、笑うとか歌うとかいったことを忘れていた。吐息と、声と、中間あたりの、かすれた細い音が綱吉の口から紡がれると、獄寺がはっとして振り向いた。綱吉は、男同士で、長い付き合いの友人で、そんな相手にこんなことをするのは恥ずかしかったけれど、鍵盤の上で踊るのが似合っている繊細な獄寺の両手を取って、ぎゅっと握った。黒いマントがさらさらと膝の上を滑って落ちた。
「獄寺君、怖くないよ、何も、」
会談の場所はもう見えていて、車はゆっくりと減速を始めた。これから綱吉がしようとしていることは、裏切りに他ならなかった。獄寺を、他にも、皆を、悲しませずに済むことではなかった。それでも、後戻りはできない。
「ごめんね」
停車すると、待ち構えていたミルフィオーレの人間が慇懃にドアを開けた。綱吉はふっと獄寺から顔を背け、表情を消し、こつんと革靴を鳴らして降りた。嵐の中でも恐れない、ボンゴレ]世の顔で。
振り向かず歩き出した綱吉は、迎えに玄関まで出てきた白蘭の顔を見ながら、不謹慎だ不真面目だとたとえ誰に罵られようと、やはり昨日の晩にでも獄寺にピアノを弾くよう強請ればよかった、雲雀と一緒に聴きたかった、と思った。
雲雀さんが出てこなくてすみません
My favorite things(私のお気に入り)
映画 The Sound of Music より
作詞:Oscar Hammerstein U 作曲:Richard Rodgers
日本語詞:竹中三佳
2011年11月30日
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