野球部のかけ声がグラウンドから遠く響いてくる、静かな夕暮れの応接室。床に直接ざぶとんを置いて、応接セットのローテーブルに宿題の国語のワークを広げ、うんうん唸っていたはずの沢田綱吉が、突然、

「恭弥、さん、」

 などと言うものだから、いつものようにデスクに座って書類に目を通していた雲雀は、驚いて力加減を間違ってしまい、シャーペンの芯をへし折った。書き込んでいた書類に、ひっかいたような小さな穴が開いた。しわのよった部分を爪の先でこすってみる。
「…………、沢田?」
 ぼそりと呼んでみても聞こえなかったのかスルーしているのか、顔を上げた綱吉は、小首をかしげて雲雀を見ながら、
「恭弥さん、雲雀、先輩?……恭弥先輩」
 と続けた。呼んでいると言うより、何かを探っているような口調だった。爪でこすればこするほど、穴が目立たなくなるどころか、ますます酷くなった書類を見て、ため息をついた雲雀は、シャーペンを置いて立ち上がると、綱吉が背もたれにしていた一人掛けのソファに腰掛けた。そうすると、雲雀の膝小僧と綱吉のほほが、ちょうど同じくらいの高さになる。目線を近づけるために、雲雀が自分の膝に肘をつくと、綱吉も握っていたシャーペンを置いて、照れたようにへへへ、とだらしない笑い方をした。
「どうしたの。なんなの?」
 半眼になった雲雀を、綱吉の大きな目が、上目遣いに見る。
「……えと、獄寺くんが。」
 その名前だけでうっすら不快になったが、とりあえずは続きを促す。雲雀は、綱吉のたどたどしい話を聞いているのが嫌いではなかった。国語のワークの見開き2ページにいつまでもつかまっている国語力の貧弱な綱吉だが、たいした相槌を打つわけでもなく、よい聞き手とはいえない雲雀に対して、話が下手な自覚はあるのだろう、何度も止まっては、少しでもわかりやすく話を聞いてもらおうと一生懸命な様子は、素直に好ましい。
「オレ、山本のことは『山本』、獄寺くんのことは『獄寺くん』って、呼んでて。何の話からそうなったかは、覚えてないんですけど、獄寺くんが、山本のことを山本って呼ぶなら自分のことも呼び捨てにして欲しい、って言い出して、」
 綱吉はそこでいったん言葉を切って、ぺろ、と上唇をなめた。
「でも、オレ、それはいやだなぁって思って、結局呼ばなかったんですけど。何で、いやだなぁって思ったのか、すぐにはわからなくて、考えたんです。」
 雲雀は相槌の代わりに、もふもふ、と後頭部を撫でる。綱吉も、雲雀のすねをきゅ、と両手で掴んだ。
「獄寺くんは、オレのこと、じ、『十代目』って、呼ぶから。それでもしオレが、獄寺くんのこと、『獄寺』って呼び捨てにしたら、何かほんとに、上下関係っていうか、ボスと部下って感じがして。オレは獄寺くんと、友達になりたいのに。獄寺くんは、そうは思っていないみたいだけど……」
 切なそうにうつむいた頭を見下ろして、雲雀は、ふん、と息をつく。うなじに絡む茶髪をかき分けて、ぺた、と一瞬、唇で触れてやると、綱吉は、わ、と小さく声を上げた後、締まらない笑みをのせた照れた顔を上げ、また口を開いた。
「山本はオレのこと『ツナ』って呼ぶし、オレも『山本』って呼ぶ。友達同士の呼び方ですよね。そう思ったら、何気なく呼んでたけど、名前を呼ぶのって、呼ぶ人と呼ばれる人の関係が、わかるのかなって。それで、」
 つまり、先ほどの模索に繋がるわけだ。雲雀が目で促すと、綱吉は赤くなりながら、もじもじと言った。
「雲雀さん、と、オレ、には、もしかして、今よりも、適した呼び方が、あったりするのかなー、なんて、思ったわけで……」
 「ふーん」と、あごに手を当て、気がなさそうに頷いた雲雀は、しかし、綱吉を脚で挟むと、

「ツナ。綱吉。」

 茶色の頭を腕に抱え込んで、耳元で、ゆっくりと、確かめるように、一度も呼んだことのない、綱吉のあだなと名を呼んだ。目の前の耳があっという間に赤くなって、声を出さずに笑う。空気が少し、甘くなったような気がした。呼び名が関係を示すものなら、呼び名によって関係が変化することもあるだろう。
「お、オレが知る限り、雲雀さんのこと、恭弥さんって呼ぶ人は、いないと思うんですけど」
 腕の中の綱吉からはもう湯気が出そうだ。
「僕が知る限りでも、ないね」
「オレが、恭弥さんって、」
 呼んでもいいですか、と続ける前に、雲雀は綱吉を膝の上にひっぱり上げた。
「うわわ、な、ひば、」
「綱吉の、好きに呼んだらいい。」
 丸い瞳を覗き込んでそう言えば、綱吉も、まだ赤い顔のまま、両手を雲雀の肩に置いてまっすぐ向き合う。
「き、恭弥さん。」
「うん。なに?綱吉」
「きょ、恭弥、さん、」
「うん、だからなに?綱吉」
「……やっぱり恥ずかしいから、この部屋に来たときだけ呼びます。」
「なにそれ」
 そんなことだろうと思った、と吹き出しながら、雲雀が綱吉の頬をつまんで引っ張る。やわらかくてよく伸びる。
「やー、いひゃいれふー」
「綱吉。つなよしつなよし。つなよし。」
「なんれふかー?」
 綱吉に、呼び分けなんて器用なことができるとは思えなかったが、その結果、どう呼ばれようとも雲雀はかまわなかった。雲雀が一緒にいないときに、ふとした拍子に交わされた友人とのやり取りにさえ、雲雀のことを考える綱吉の気持ちを知ったので。
「僕は、君のこと綱吉って呼ぶよ。」
「はひ、ひょんれふらはいー」
 頬をひっぱられたまま喋ったせいで唇の端からよだれを垂らして、それでもにこっと笑った綱吉の顔がとても間抜けで可愛らしかったので、雲雀は、よだれを自分の白いハンカチで拭ってやってから、むに、と唇を押し付けるだけのキスをした。綱吉はまた、意味もなく「恭弥さん」と言った。




2008年11月16日