コーヒーカップを二つ載せた盆を持って、綱吉がデスクの、座っている雲雀の前に立つ。メリタの紙フィルターで、スーパーの袋入りレギュラーコーヒーを落としているだけなのだけれど、それがそれなりに上手く淹れてある。初めて飲んだとき(そのときは緊張のあまりか、デスクへ運んでもらうまでに半分近くが盆にこぼれていたのだが)驚きを隠せずにいたら、赤ん坊の他に家庭科の家庭教師もいるのだと、なぜか遠い目で告げられた。包丁を一人で持つのがなかなか許されないとかで、まだ飲み物しか出されたことはないが、味はともかく、支度する手つきを見ていると、正直、熱湯を扱うのもやめてもらえないかと思うことも少なくはなく、致し方ないかと思う。
「恭弥さん、どうぞ」
「はい、ありがとう」
 予想に反して、あの日以来綱吉は、雲雀の完全な呼び分けに成功していた。実は、綱吉が帰宅したら何故か一部始終を把握していたリボーンによる「マフィアのボスがそのくらいできなくてどーする、表の顔と裏の顔を使い分ける訓練だ」という綱吉には意味不明かつ余計な、リボーンにしてみればやっぱり面白がっているだけだったりする、介入があったからなのだが、そこまでは雲雀の知るところではない。

 雲雀がコーヒーにひとくち口を付けるのを見届けた後、自分の分を残した盆を持って、綱吉が宿題を広げたローテーブルへ戻ろうとする。ほんの数歩を、すんなり戻ればいいのに、何を思い出したのか、盆を持ったまま急に振り返った。足もとにはざぶとんがある。踏めば滑って転ぶに違いない。らしくなく、雲雀は焦った。

「恭弥さん、オ」
「綱吉さん、足……っ」

「…………?、!?」


 綱吉が、

 ものすごく、

 びっくりした顔で、

 こちらを見ている。


 そりゃあそうだろう。雲雀自身もものすごくびっくりしているのだから。

「え?……えっ?あ、あし?」
 綱吉は目を白黒させながら、その場でフリーズしている。とりあえずコーヒーともども滑って転ぶ危険は回避できたようだ。
「……足、ざぶとんを、踏むと、転ぶ、から、」
 雲雀が震えながらなんとかそれだけ言うと、綱吉は戸惑いながらも足もとを見、ざぶとんを踏まないようによけた。
「あ、は、はい。ありがとうございます。」
 頼むから、それ以上は触れてくれるな、そっとしておいてくれ、雲雀の願いもむなしく、いったん盆を置いた綱吉は、窺うようにこちらへ戻ってくる。デスクの上で握りこぶしを作りうつむいていた雲雀を、そっと覗き込む。

「あの。恭弥さん?」
「……………」
「顔、真っ赤で、」
「うるさいよ」
「さっきの、もしかして、」
「黙りなったら」
「オレが『恭弥さん』って言ったのにつられ」
「咬み殺すよ!」

 動揺しながら取り出したトンファーは、いつものキレどころか、ぺちん!と可愛い音を立てて綱吉の手のひらに受け止められた。顔が熱い。何十人もまとめて咬み殺した後よりも熱い。さぞかし赤いことだろう。雲雀はもうトンファーから手を離して、両手で顔を覆ったが、「耳まであかい……」という小さな呟きが聞こえてきて肩が震えた。泣くかもしれない。
「ふ、っく。……ぶ、ふふ、っふふふふふ」
 追い討ちをかけるように、口の中へ閉じ込めようとして失敗した、という風な笑い声がする。てのひらの隙間から、じろり、とにらみ上げてみたが、綱吉は気づかずに、トンファーを抱きしめたまま笑っている。
「ふふっ、ふふふふふふふ、ふっふふふふ」
 げらげら笑ったら悪いとでも思っているのだろうが、雲雀にしてみれば大差はない。
「ふふふふふ、きょうやさっ、っふ、か、かわいぃっ、ふふふっ、ふふふふふふふふふふ」
 言うに事欠いて「かわいい」とは。雲雀はすっかりへそを曲げて、くるりと椅子ごと後ろを向くと、窓に向かって腕を組んだ。
「ごっ、ごめんなさっ、ふ、だって、ふふ、恭弥さんがっ、あかくなって、ふふっ、恥ずかしがるなんて、ふっふふ、珍しいから」
 笑い混じりに謝られても、腹が立つばかりである。つんと無視していると、綱吉が慌てて、デスクを回りこんで、窓越しの青い空をにらみながら腕を組んでいる雲雀の前に立った。
「怒って、ます?……よね」
 へらっとして、窺うように訊く顔は笑いすぎて真っ赤だし、目尻にはうっすら涙までうかんでいる。
「何さ」
 何さ、と雲雀は思う。綱吉だって、雲雀の前でこんな風に大笑いしたことなんかなかったくせに、雲雀がこんなに決まりの悪い思いをしている姿を見て笑って見せるなんて、ひどいじゃないかと。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もう笑いませんから、……オレが転びそうだったから、慌てたんですよね」
 フォローをされても恥ずかしい。だいたい、そう反省している顔にも見えない。もう散々だ。
「ね、恭弥さん、そんな怒んないで。機嫌なおしてください、」
 それでも、綱吉が、まだ胸に抱えたままだったトンファーをデスクに置き、雲雀の髪をそっと指で梳いて、頭のてっぺん、額、耳の輪郭、鼻の頭、頬骨の上、まぶた、と、くちびるで触れてくるので。その感触が、本当に気持ちよかったので、あと五回、いや十回くらい、このままキスしていてくれたら、仕方ないから許してやってもいい、と思ってしまうのだった。









 そうだあれは並中の応接室で、僕らはまだ中学生だった、と雲雀は懐かしく思い出した。
 走馬灯というやつかもしれない。

「きょうや、きょうやさん、返事して?何か言って?ねぇっ、オレが怖いからっ」

 日本、東京は新宿の、駅に近い小さな路地裏のごみ溜めの中で、雲雀は仰向けに転がっている。さっきまでうるさいほど鳴り響いていた自分の鼓動はもう聞こえないほど遠く、熱く吐き出されていた息は冷え切って、寒くて仕方なかった。血液が急速に失われている。

 どんな方法を使ったのか知らないが、新宿で倒れている雲雀を見つけ出したのは、修行中のイタリアから明日一時帰国するはずのドン・ボンゴレだった。綱吉は、巨大マフィアの十代目にふさわしい鬼のような形相で、どばどばと鮮血を垂れ流す雲雀の応急処置をして、通信機器であちこちに指示を出しまくってから、救援を待った。その間、最初のうちは火を噴く勢いでものすごい説教――「なんですかこれ、どーいうことですかこれ、オレはね、あー恭弥さんがなんかやってるなーっていうのはわかってたんですけど、あなたもかっこつけたいでしょうから、黙ってたんですよ、それがなんですか、スタンドプレーの挙句が瀕死ですか、しかもくっだらないミスで、あのね、オレはね、こんな、人命救助のために予定を早めて帰国したんじゃないんですよ、新宿のね、ぼーりきだんのみなさんとの会合が終わったら、久しぶりの日本だし、まずは、高島屋の茶語か、伊勢丹のロイヤルコペンハーゲンで、二人でお茶して、それからメンズの階に行って恭弥さんで着せ替えして、オレもなんかスーツじゃない服買っちゃって、着替えて、そこから中央線で中野に出て、まんだらけで漫画しこたま買って、オレのプリウスまわしてもらって、恭弥さん助手席に乗せて並盛までドライブ、って綿密な予定をたてて、恭弥さん予定はいかが?って帰ってきたんですよ、それがね、台無し、だいなしです、全部パーですよ!恭弥さんのばか!言い訳なんかききませんから!口は閉じて!」――をしていたが、ひととおり怒りがおさまったら今度は泣き出した。

「……さっきは、だまってろって、いった、くせに」

 重いまぶたを押し上げて、かすれた声でなんとかそう言うと、震えに気づかれたのか、綱吉の白いスーツの膝の上に抱え込まれる。動揺して少し乱暴なその腕も、足があたってがさがさと鳴っているゴミ袋も、感覚はひどく遠く、ただ、背中に触れる綱吉の感触を焼けるように熱く感じる。目を開けても焦点は合わず、頬にぽたぽたとふりかかる涙の、熱湯のような熱さだけがわかった。恋人の一時帰国と聞いてらしくもなく浮かれて、その前に新宿の露払いでも、と東京へやって来て、まったくもって先ほどまくしたてられた通り、スタンドプレーの挙句が瀕死になって、情けない、恥ずかしい限りの失態である。
「もう、ほんとに、ばか、きょうやさん、ばかきょうや……」
 ぽたぽた、ぽたぽた、熱い雫は際限なく降りかかってくる。こんなに泣かせても、今の雲雀は涙を拭う手一つ動かせない。まだ声は出るだろうか、雲雀は腹に力を入れた。

「つなよしさん、」
 なかないで、あのときみたいに、しっぱいしたぼくをみて、わらって。

 雑居ビルの角をまがって、ばたばたと足音、それに混じった聞き覚えのある声が聞こえてきた。きっと雲雀は助かって、綱吉はまた笑うだろう。そう思い、雲雀は安心して目を閉じた。


「君の名前を呼んだ後に」槇原敬之
2008年12月3日