暗い教室には半分だけ灯りがついている。室内なのに吐く息が白くなるのじゃないかと思うほど寒い。実際には、机の上の温かい缶飲料が湯気を上げているだけなのだけれど。窓が細く開いていて、白い糸を束ねたように雨が降っている。

「山本、こういう雨って何か名前あるの?」
「うーん、よく知らねーけど、冷たい雨なら氷雨じゃね?」

 授業が終わって、今日は体育館も、渡り廊下も、特別教室前の廊下も、雨天メニューをこなせる場所が一つも取れなかった野球部は部活がない。綱吉は傘を持っていなくて、風紀委員に借りられるような傘がないか訊ねるために、下校時の風紀取締りをやっている雲雀を待っている。獄寺は、雨の日は身体がだるいといって午前で帰宅していた。口にはしないが、猫のようだと綱吉も山本も考えて、顔を見合わせた。はまりすぎている。

「用がないなら早く、」

 何の前触れもなくいきなり扉が開いて、群れに帰宅を促す言葉が半分だけかけられる。雲雀と風紀委員だ。綱吉の姿をみて、つかつかと室内に入ってくる。

「お仕事お疲れさまです」
「……傘?」
「ばればれですか、」

 見回り途中の雲雀は、いつも綱吉と居る時よりも、空気がぴんとしていると山本は思った。綱吉の前で普段は垂れ流している、でれでれした甘いところが、どこかにしまわれている。綱吉も、こういう時には雲雀に不用意に触れたりしない。ただ、視線だけが絡み合っている。どっちにしろあてられるのな、と山本は密かに笑って、綱吉に寄りかかった。二人はまだ話している。

 オヤジの仕込を手伝う、と言って山本は帰った。教室に一人残った綱吉は、冷たくなってしまった残り5分の1ほどのミルクティーを飲み干して、時計を見てから立ち上がる。窓を閉め、灯りを消す。廊下ではサッカー部が一列に並んでスクワットをしている。脇をすり抜ける。ダメツナなにやってんだよ、早く帰れ、特に意味もない揶揄を、いつもの曖昧な笑みで流す。

 応接室の扉を叩いても、室内からは反応がない。それに構わず綱吉は入室する。雲雀はいつものようにデスク前のチェアに座って、けれどデスクには背を向けて、後ろの窓から雨を見ている。近づくと、視線は窓の外にやったまま手だけを伸ばされたので、素直に手のひらを重ねると、ぐいと引っ張られる。逆らわず倒れこむと、抱きとめるというよりは乱暴に、膝の上にぎゅっと抱え込まれる。湿った学ランからは雨の匂いがする。

 頑なに窓の外を見たまま、雲雀の手は綱吉の形を確かめるように動く。何かを押し殺している様子だった。綱吉も心の赴くままに手を伸ばして、学ランの下の白いシャツに包まれた背中をゆっくりと撫でる。

「僕は頭がおかしいんだろうか、」

 綱吉がいくら小柄と言っても仔猫でもあるまいし、不安定な姿勢で愛撫のようなことをしていれば雲雀の膝にいつまでも納まっていられるわけもなく、床にぺたりと座って、黒いスラックスの膝にこめかみをつけて、雲雀をまねるように窓越しの雨を見ていた。そのちくちくした髪に指を差し入れて、握りこんだりくしゃくしゃにかきまわしたり、好きにいじっていた雲雀がぽつりと呟いた。暗くなった校庭で、水銀灯の周りにだけ雨粒が浮かび上がっている。

 山本武が綱吉に良く触れるのは、単純な親愛の情の発露というやつだ。体育会系男子にありがちな身体距離のとり方で、肩を抱いたり、抱擁したり、寄りかかったり、という行動には深い意味が込められているわけではまったくない。そんなことは良くわかっているのに、

「嫉妬で苦しい。あんなささいなことで、どうしてこんなに苦しいんだろう」

 雲雀の頭の中では、つい先ほどの、薄暗い教室で気だるげに綱吉に寄りかかっていた山本の姿が何度も繰り返し再生されている。その度に胃が焼け付くような気持ちがする。それらを全てわかっていますよ、と言いたげな顔で、くく、と、それこそ山本武が見たら驚きに目を見張りそうな、低く喉を鳴らす彼らしくない笑い方で、綱吉が唇の端を吊り上げる。床の上から伸び上がるように両手を伸ばせば、雲雀は意図を読み誤ることなく、再び綱吉を膝の上へ引っ張り上げる。

 独白めいた雲雀の呟きに答えることなく、忍び笑いの綱吉は、少し乾いた唇を雲雀の顔中に押し付ける。雲雀の頭がおかしいのなら、苦しいほどに嫉妬する雲雀に苦しいほどの悦びを感じている綱吉もまた、おかしいのだ。

「雲雀さん、身体中、ずいぶん冷えてますよ」

 綱吉の唇を受けてもなお嫉妬の苦痛を浮かべた白い頬に、そっと指を滑らせて、そのままワイシャツの襟元から首筋へと肌を探る。

「あたためて、」

 誘導されるまま陳腐な台詞を言ってしまう心細げな雲雀に、綱吉は艶めいた笑みを浮かべると、臙脂色のネクタイの潔癖な結び目に指をかける。窓の外では相変わらず、暗闇の中に冷たい雨が降り続いている。





2010年10月29日