金属の玄関扉の向こうから、ピピ、とかすかな電子音がして、その後、かちゃかちゃと金属がぶつかり合う音とガチャンと重い開錠の音がした。網膜で生体認識するロックがついているのに、何だか鍵がかかっている気がしないとのたまって、ごくごく普通の「玄関の鍵」を取り付けさせたのはこの部屋のあるじ、沢田綱吉である。

「ただいまぁ」

 少しぐったりとした感じの声が響いて、暗い玄関ホールの壁をごそごそと手が這った。それからぱちんと明りがついた。

「誰もいないのになんでただいまって言うの」
「家に帰ってきてただいま以外になんて言うんです」

 綱吉は24歳にして独身であるけれど、同居している「家族」と言いたい人はいて、だから帰ってきたときに「ただいま」と言うのは別に寂しい一人芝居でもなんでもない。けれど今は部屋に同居人は不在であった。なぜなら、綱吉の同居人で伴侶であるところの雲雀恭弥は、綱吉と共に外出していたからである。そして今一緒に帰宅した。だから、

「雲雀さんに言ってるんですよ」
「そうなの?おかえり。ただいま。」
「おかえりなさい。」

 二人で並んでごそごそする。よく磨かれた革靴を脱ぎネクタイに手をかけジャケットを脱ぐ。見ているものは誰もいないが、もしもいたとしたらきっと驚嘆の声を上げるだろうくらいには仕草が似ている。初めから似ていたわけではなく、一緒に暮らすうちに似てきたのだ。影では似たもの夫婦(夫々?)と言われていることに、本人たちは気づいていない。

「あー、お腹減った」

 普段より整えられてはいるがやっぱりもさもさしている頭をがりがりと掻いて、スラックスを脱いでハンガーにかけながら綱吉がそんなことを言うものだから、ベルトを緩めながら冷蔵庫のミネラルウォーターをペットボトルから直接あおっていた雲雀は、ぐ、と喉を詰まらせた。

「僕ら今食事に行ってたと思ったんだけれど、気のせいかい」
「食べた気しないですよ、申し訳ないけど」
「……………………まぁね、」

 手の甲で口元を拭った雲雀は、空になったペットボトルをくしゃっと潰すと、靴下を洗濯機に入れるために洗面所へと行った。入れ替わりに綱吉が冷蔵庫を開ける。

「お、塩鮭はっけん」

 一昨日の夜、三切れパックを解凍して全部焼いたので一切れ余ったのだ。ラップをかけた角皿を手にして目を輝かす綱吉を、綱吉と同じようにワイシャツにぱんつだけになって洗面所から戻ってきた雲雀が、呆れた顔で見る。

「太るよ。最近戦闘らしい戦闘もしてないだろ、君」
「平和で結構、ふくよか結構です。じゃあ、雲雀さんはいらないですか、鮭茶漬け」
「食べるに決まってる」

 雲雀はもう戸棚から二人分の茶碗を出している。綱吉の手もとにも、一膳ずつラップにくるまれた冷凍のご飯が二つある。つまり、今のやりとりはただのいちゃつきだ。

「君はどうするの。お茶?お湯?出汁?」

 やかんを火にかけた雲雀が、振り返りもせず訊く。

「ほうじ茶の気分です。赤い茶筒に入ってると思うんで」
「はいよ」

 お茶漬けの時、綱吉はお茶派で、雲雀は出汁か白湯派である。出汁といってもお湯に顆粒だしを入れるだけなので、手間はお茶より少ない。綱吉の方はといえば、ご飯を解凍している電子レンジにはりついている。雲雀が猫舌なので、解凍できたら温まる前に取り出さないと、熱い出汁を掛けたら食べられないのだ。

「わさび入れよう」
「自分のだけにしてください。チューブのがありますよ、冷蔵庫の扉」
「青じそある?」
「あると思いますか、そんなもんが」

 炊事は結構よくする、部類には入るはずだが、何と言っても男の二人暮らしである。一度に少ししか使わない上にすぐ傷む、薬味の類は生では買わない。

「しその実の塩漬けと、白ごまならあったはずです」
「あるんじゃないか」
「青じそはありません」

 引き出しから、同居を始める時、結婚祝いだといってクロームがくれた、おそろいの塗りの箸を出す。二人とも手が大きいのを良く知っているから、あまり見かけないくらい大きめの箸だ。クロームのこういう気遣いが可愛いとこの箸を見るたびにいつも思う。

「君は?」
「オレも入れます」

 頃合を見てぱっと取り出したご飯を茶碗に移して、指でつついてちょいちょいと整えた。手で食べ物に触ったからといって、雲雀もいまさらそんなことで文句を言いはしない。次は箸で鮭をほぐして、まず身を二等分、皮は刻めばいいのだろうが、面倒なので半分にちぎって、にょろっと入れる。指についた塩と魚の脂を、ちゅぱ、と音を立てて舐めていたら、冷蔵庫からしその実の塩漬けの入ったビンと白ごまの入った袋を出した雲雀が、すれ違いざま空いた指をぺろっと舐めた。

「鮭の塩気か君の塩気かわかんない」
「たぶん半々です」

 触れ合いともいえないような触れ合いがささくれ立った心を宥めて、それでやっと気が立っていたのだと気づく。綱吉は小さくため息をつく。

「湯、沸いたよ」

 音の鳴るやかんは嫌いな雲雀がぽこぽこと泡立つ音を立て始めたやかんの火を止めて、まずはほうじ茶の入った急須に、次に顆粒だしを入れたマグカップに湯を注いだ。急須からたつ湯気は香ばしいし、マグカップからたつ湯気はかつおの香りが食欲をそそる。塩鮭がトッピングされたご飯の上に、しその実の塩漬けをスプーン一杯ずつ。それに雲雀はチューブのわさび、綱吉は白ごまを振って、それぞれ好みの汁をかけた。ふわっと鮭の匂いが薄暗い食卓に満ちる。

「いただきます。」

 綱吉は箸を握って、雲雀はぱちんと手を合わせて、同時に言って、茶碗を取り上げた。

 ずずっとすすると、湯で洗われたご飯粒がさらさらと流れ込む。綱吉にはちょっとぬるいが、雲雀にはちょうどいい温度だ。塩鮭としその実から染み出た塩気が強すぎなくて、食事の後でも簡単に胃におさまってゆく。

「おこげが入ってる」
「この間の残りですから」

 思い出して少し笑った。別に周囲に宣言してそうしているわけではないけれど、夜中お互いの手帳を見せ合って、綱吉と雲雀はできるだけ同じ日に休みを取るようにしている。先日の二人揃った休み、昼近くに起き出した直後に雲雀が突然「おこげのあるご飯が食べたい」と言い出して、パソコンに向かった二人が調べたのは、並盛町内で釜炊きご飯が食べられるお店ではなく、土鍋でご飯を炊く方法だった。それから午後をゆっくり使って、米をといで、水に浸している間に商店街にご飯のおともを買いに行って、大騒ぎしながら飯を炊いて、朝食なのか昼食なのか夕食なのか、全くわからない時間におこげご飯と漬物と塩辛と佃煮を食べた。台所にあった、皆が集まった時に鍋大会をするための大きな土鍋で炊いたものだから、二人ではとても食べきれない量になってしまって、結局半分くらいは冷凍したのだ。

 軽い一膳のお茶漬けは、身体が資本の二十代の男二人の腹の中に簡単に片付けられてしまった。

「ごちそうさま、」

 少し放心したように小さく綱吉が呟いて、椅子に背を預ける。食卓の上の電球色の照明だけ灯された台所で濡れた茶碗がほのかに光っている。今夜は、懇意にしている古いファミリーのボスの奥方の心づくしを頂いてきたはずなのに、今こうして薄暗い台所で雲雀と並んで、残り物の鮭茶漬けを一杯すすった方が「ものを食べた」という気持ちが強くて申し訳なくなる。

「…………つまり、見合いでしたね」
「…………ああ、見合いだったね」

 疲れ切った様子で綱吉が言うのに、同じように椅子に背を預けて育ちのいい黒猫のような伸びをした雲雀が、やっぱり疲れ切った様子で頷いた。

 数ヶ月前、イタリアの本部で、同盟ファミリーの会談……というか、そう改まったものでもなくて、まあ、茶ぁでも飲みながら近況報告と情報交換でもしましょう、という会が開かれた。さっき「太る」と雲雀が言ったように、ここのところ不穏な動きもなく、本当に喫茶を楽しみ、山本監修の日本料理に舌鼓を打って、飼っている猫がお手を覚えただとか、孫娘にじーじの似顔絵を描いてもらっただとか、もちろん影ではいろいろアレな話もしてはいたが、表向きはそんな話題ばかりで和やかに終了した。

 三々五々散って行く中で、ボンゴレ十代目を呼ぶ声があり、綱吉は喜んで駆け寄った。いかにも好々爺然としたたたずまいの男は古くからボンゴレと盟友であるファミリーのボスで、それだけでなく、綱吉がボスに就任して早々、組織の表の顔である商社の支社を東京に置きマンションを買ってイタリアと行き来し、右も左もわからなかった綱吉に甘やかさない程度に何度も手を差し伸べてくれ、対価を要求するでもなくただ笑っているような人だった。

 マフィアであるのだから本当のところ「いい人」などであるはずはなかったが、それでも穏やかな人柄は綱吉には十分慕わしく、オレの恩人、おじいちゃん、と良く口にした。少なくとも、にこにこ顔で厄介ごとしか持ってこない食えない九代目のおじいちゃんよりかはよほど、綱吉が甘えられる相手だった。

「今日は楽しい会でした。お招きありがとう」
「オレの方こそ!来てくださってありがとうございます」
「こんな素晴らしい集まりの、お礼と言っては気がひけますが、」

 東京のマンションの方で、料理自慢の奥方が腕を揮うから、是非来て欲しいという誘いだった。

「雲雀君と二人で来てください、一緒に住んでいると聞いています。友人と二人暮らしなんて、若い人は楽しそうで羨ましいですよ。妻との暮らしはあれこれとうるさくてね」

 その妻の手料理を自慢しようという男が何を言うか、というところであるが、綱吉にはただただ微笑ましく、もちろん、と頷いて答えた。

 それが今日だったのである。

 下手に西洋のものを送るよりは、と、雲雀の見立てで、白い秋明菊や紫式部など、日本の秋の花を和紙で包んだ花束に仕立ててもらい、極上の日本酒は甘口で飲みやすいものを選び携えて、二人で東京を訪ねた。暖かいキスとハグで若者二人を出迎えた奥方の、心づくしの食卓には同席者がいた。綱吉と雲雀よりは、2、3歳は上だろうか、若い女性が二人。

「うちで妻が、料理やお行儀を教えていてね。今日もずいぶんと手伝ってもらいました。身元は私が保証しますから」

 もちろん、彼が家へ入れるような娘さんの身元を疑うことなどしない。綱吉はにこやかに礼など述べて、断ってから頬に紳士的なキスを贈り、そんな風に総勢六人の会食はスタートした。

 違和感がなかったわけではない。どうみてもイタリア娘であるその二人の女性が、わざわざ綱吉と雲雀のもてなしの手伝いのためだけに来日したというのは不自然だった。しかし、既に一年の半分を日本で過ごすようになった夫婦であるから、イタリアの身内や友人が観光で日本を訪ねれば、滞在させることもあるだろう。そう思えば不審に思うことでもなかった。

 万事控えめな男がわざわざ自慢するだけあって、奥方の料理は掛け値なしに美味だった。イタリア南部の素朴な家庭料理が主だったが、それだけに料理人の経験と手間ひまが思われる。少しワインが入ったところで、彼は奥方と出会ったときの恋物語を語りだした。

「友情はもちろん素晴らしい絆です。けれど、恋の歓びは何物にも代え難い」

 彼はいたってノーマルな嗜好の持ち主で、綱吉が雲雀と暮らしているからと言って、そこに友情以外のものが存在しているなどと、可能性すら思いつかない。これは嫌味や当てこすりではないのだ。いい歳になっても友情を大事にして、男同士で少年のように楽しく暮らしている(と思っている)綱吉と雲雀に、妻を迎えるのは若い人が考えるような自由の終わりではなくて、素晴らしい生活のはじまりなんだよ、と、彼らしく遠まわしに助言を与えているのだ。女性二人も出過ぎたところはなく、行儀を習っているという言葉通り食卓にふさわしい和やかな話題ばかりを振って、あわよくばボンゴレという大ファミリーのボスや幹部の妻になってやろうなどという野心などはかけらも見えなかった。殺伐とした仕事をしている若い二人にひとときのくつろぎを提供したい、という好意ばかりが見えた。

 年老いた夫婦の、本当に心づくしの食卓だった。純粋な、100%の好意だからこそ、二人には針のむしろとなった。残念ながら、前菜以外の料理の味は覚えていない。

 茶碗と箸を持って立ち上がる。今回の休みは今日一日だけだ。二人とも、明日はいつも通り黒いスーツで書類に向かわなければならない。

「綱吉、」

 流しに向かおうとした綱吉をふと雲雀が呼び止めて振り返った。顔に影が落ち、ゆっくりと唇が重なる。少し押し付けあって、触れるだけで離れる。

「……魚臭い」

 ぷ、と二人で噴出して、洗い物を手早く片付ける。綱吉が洗った食器を、雲雀が拭いて食器棚にしまう。

「明日はご飯減らさないと、本当に太りますよこれじゃ」
「僕と戦ってくれればいい。このくらいのカロリーすぐだよ」
「やです」
「けち」

 雲雀が事実上の伴侶であることを、彼に告げるつもりはない。優しい人を困惑させるだけだからだ。恋の歓びは何物にも代え難い、その言葉を綱吉は心のうちで繰り返した。綱吉は恋の歓びをよく知っていた。けれどそれを彼に教えて、幸せを分かち合うことができないということがただ、小さな悲しみとして胸に残った。







2010年10月11日のREAL MAFIA 4にて配布させていただいた
「秋なのでひばつなが鮭茶漬けを食べるペーパー」からの再録です。

あーきさんと居酒屋でご飯を食べたとき
個室なのをいいことに
ひばつな話しまくるだけには飽き足らず
スケブにいやんな絵を描いたり
紙製のランチョンマットの桜の絵にひばつなを描き足したり
〆に鮭茶漬けを食べながらカッと目を見開いた私が
「ひばつなも鮭茶漬けを食べるべき!」
と言ったらあーきさんが同意してくれてこの話ができました(責任転嫁)
お茶漬けはなんとなくくたびれた夜のイメージ
食べるとほっとして眠くなります
2011年10月1日