「で、どーなん?実際」
こん、と床にグラスを置いた山本武の顔は赤い。
夜も更けた沢田邸である。ボンゴレ並盛支部の最深部に位置する、十代目ボス、沢田綱吉の私宅は、扉を開けるとそのまま、3LDKのマンションのような作りになっている。照明を落としたリビングダイニングでは宴も半ばを過ぎたところ、男の友情も既に十年目を数える、元「並盛中学2年A組3バカトリオ」の面々は、フローリングの床に直接つまみを広げ酒瓶とコップを置き、バカ騒ぎもとりあえず落ち着いて、今はキッチンの換気扇の音が大きく聞こえた。子供のような酒宴の果てに、いつまでも幼さを拭えない顔に似合わず、水を飲んでも酒を飲んでも変わらないザルの綱吉こそクッションにちょこんと座っているが、そこそこいけるはずの山本武は持参したぬる燗がうまいという一升瓶をかかえて(人肌なのなー)くったりと壁にもたれかかっているし、綱吉の杯に律儀に付き合って早々にぐにゃんぐにゃんになってしまった獄寺は床に転がって、目を開けてはいるがどこを見ているのかいまいちよくわからない。
「どう、って言われても、」
酒ではなく照れのためであろう、微かに頬を赤くして、かりかりとこめかみを掻いた綱吉は、いつもの、「困ったような笑み」を見せた。これが、本当に困っているのだという意思表示から、その場を当たり障り無く切り抜けるのに便利な表情、にすり替わったのはいつの日か。しかし当然、山本はひっかかったりはしない。にか、と顔中で笑って、なあなあ、どーなんだ、と追及の手を緩めない。うーん、と視線を泳がせた綱吉は、今は換気扇が回っているだけの、薄暗いキッチンスペースを見る。カウンターにはダイニングチェアが2つ。橙色の座布団が乗った椅子と、紫色の座布団が乗った椅子。半年ほど前に、紫の方が一脚増えたのだ。綱吉のと、雲雀恭弥のと、つまり二人は一緒に住んでいるのであり、紛うこと無き「新婚さん」なのである。
「その「どう」は雲雀さんにかかるんだよね?やっぱり」
眉こそは八の字に寄ってはいるが、綱吉の全身からは「新妻が可愛くて可愛くてしかたがない」オーラが出ている。しかし、そのセリフを受けて、山本は寄りかかっていた壁から背を離して身を乗り出してきた。
「そー、それなのな」
「そ、それ?どれ?」
「呼び方!」
ちゃぽん、と一升瓶をホームラン予告のように突きつけられ、綱吉はのけぞって避けた。
「結婚してそろそろ半年、婚約期間も入れたらもっとだろ、何でいまだに「ヒバリさん」「沢田」なんだ?」
「……変かな?」
身を乗り出して訊ねる山本に、綱吉は首を少し傾けて、心なしか悲しそうな顔を作って、上目遣いに訊きかえした。もちろん、山本が綱吉のこの顔に弱いとわかった上でやっている。山本は、ちぇ、と小さく舌を鳴らした。演技だろうと思うのに、強く出られない。
「いや、別に、変ってわけじゃねーけど。珍しいことは確かだろ。獄寺なんか、ツナがヒバリに敬語なのは、毎日暴力ふるわれてるからじゃないかって、こないだなんか真剣な顔で、DVについて書いてあるサイト、ネットで検索してたぜ」
「ど、どめすてぃっくばいおれんす?」
たらり、と綱吉が冷や汗を垂らす。自分の名前を呼ばれたのがわかったのか、死んだ魚のような目で横たわっていた獄寺が、唸りながら何度かまばたきした。山本がジャケットを脱いで、ぱさりと掛けてやる。
「……ーだぃめぇ、」
濁った目で、ふへ、と顔を幸せそうに緩めた獄寺に、二人で苦笑する。
「オレは、雲雀さんと一緒にいられて、毎日ほんとに幸せだと思ってるけど、」
獄寺君には伝わらないかなぁ、と少し淋しそうに綱吉が呟けば、敬愛する十代目、に名を呼ばれたのがわかったのか、獄寺は急にむくりと起き上がった。
「じゅーだいめはっ、しやーわせに、ならないと、いけませんっ」
山本が掛けたジャケットを跳ね飛ばして、ぐっと綱吉に向かって身を乗り出す。ろれつは回っていない。ハイハイ、獄寺君も、山本もね、と笑って頷く綱吉は一見、菩薩のようだが。
「あのおんなにっ、ヒバリに、それが、できるんですかっ!からだがぜんぶ、きんにくでできてるみたいな、きょうぼうおんなですよっ」
「心配してくれてありがとう。オレはね、雲雀さんと一緒にいれば、幸せだよ」
「さすがはじゅーだいめぇ、なんてこころのひろいっ」
「まあまあ、ほら、獄寺君、お酒まだあるよ、もっと飲みなよ」
笑顔でなみなみとコップに注いだ酒は、電氣ブラン(40度)である。もちろん、綱吉が注いだ酒を断るなどかけらも浮かばない獄寺は、感激の面持ちで一気に飲み干し、今度こそ昏倒した。獄寺の中のイタリア人の遺伝子のアルコール分解能を信じるしかない。ハハハ、と笑いながら山本は、おっかねえ、という言葉を何とか飲み込んだ。
「……獄寺も、悪意があるわけじゃねえと思うぜ?」
綱吉の前で雲雀をけなすなど、自殺行為もいいところである。獄寺は、美人薄命を絵に描いたような母親を持ち、姉は十代から愛人なんてものをやっているビアンキ、さらに恋人?は良くも悪くも女性的にパワフルな三浦ハル、と、周辺が皆、いわゆる「女性らしい」女性なものだから、雲雀恭弥の如き人間はなかなか理解しづらいのであろう。山本もその辺りを察して、十年来の親友として、何とかフォローを試みる。ん?悪意?やだなぁ山本、オレだってそんなこと思ってないよ、とうそ臭い作り笑顔でウフフ、と笑ってから、綱吉はふっと表情を緩めた。素の顔だ。
「さっき山本が言ってた、名前のことはね、変えないようにしましょうって言ったのオレなんだ。公私混同になるといけないからって。一応、一緒に仕事してるわけだし。オレ、楽な方に流されやすいから、仕事でも際限なく甘えちゃいそうで、」
「際限なく甘やかしちゃいそうで、の間違いじゃねーの」
にしし、と山本がまぜっかえすと、綱吉は素直に照れた。
「まあそれに、雲雀さんがすっごく可愛くて、しかもできすぎの奥さんだってことは、夫のオレだけが知ってればじゅうぶんだよね」
左手の薬指を鈍く光らせながら、頬を染めつつもためらうことなく言い切った綱吉に、山本は、ごっそさん、と拝む仕草をしながら、トマトの冷製パスタを塗り箸でちゅるると食べた。今日の肴は、冷製パスタ、大皿に焼いたラザニアに、ひらめのカルパッチョなどなど、彩りも美しく華やかな品々が並ぶ。綱吉が作ったものだ。手馴れているから、普段から全ての家事を綱吉がやっているのではないか、と宴の始まりにこそこそと獄寺が耳打ちしてきたのを思い出す。
「センセイがアレだった割に、ツナ料理うめーよな」
「そうかな?ありがと。山本には負けるけど」
「いや、オレは洋食は苦手だし」
「オレだって、和食は苦手だけど」
雲雀さんの卵焼きはね、甘くてふわふわで、すっごくおいしいよ、と綱吉が鼻の下を伸ばす。
「ヒバリの卵は甘いんかー、なんか意外だな」
「そう?」
割烹着をつけて台所に立つ雲雀恭弥、なんて、山本にはどうにも想像のしがたい光景だけれど、不思議そうに首をかしげている綱吉にはごく当たり前の日常なのだ。
「山本も、飲みなよ。そのお酒、もう程よくあったまってるでしょ」
ぐいのみに酒を注がれながら、ツナとヒバリって、だんだん喋り方とか仕草とか似てきたよな、と山本が言うと、綱吉が笑った。幸せだとひと目でわかる顔だった。未だに呼び方が「雲雀さん」「沢田」であろうと、綱吉が常に敬語であろうと、二人が幸せならいいのなー、と思いながら、山本は杯を干した。
キッチンの換気扇の低い震動しか響いていない深夜のリビングで、すっかり寝入ってしまった山本と獄寺に、毛布を掛けてやる綱吉の手は優しい。
「お母さんみたい」
「……そこはせめてお父さんって言って欲しい」
部屋の入り口でチェシャ猫のように笑っているのは、綱吉の妻であるところの雲雀である。
「おかえりなさい。」
「ただいま。」
猫そっくりの仕草で足音もなく綱吉に擦り寄った雲雀のあごに手がかかり、頬骨の上に唇が降る。
「あ、ラザニア作ってる、こないだぼくが食べたいって言った時には焼いてくれなかったくせに」
「そりゃあ、真夜中にいきなり言われても、」
頬を膨らませた雲雀は余った酒の肴を小皿に移して、ラップを掛けている。綱吉は音も立てずに静かにグラスを洗って、親友二人がいつ目覚めても良いように、レモンの輪切りを浮かせた冷水のピッチャーをリビングの床にそっと置いた。
「女子会はどうでした?」
「つるし上げを食った」
「はい?」
京子、ハル、クローム、全員が多かれ少なかれ一度は沢田綱吉に恋心を抱いたことがあるという恐ろしい面子、女だけの遠慮の要らない宴会はえげつなく盛り上がり、新婚生活についての追求は過酷を極めたと言う。
「つなのせいだからね、」
何を言わされたのか、拗ねて唇を尖らせ、赤い顔でぽつんと呟いた雲雀を、でれっと相好を崩した綱吉が抱き寄せ、膝に抱えてキッチンカウンターの椅子に腰を下ろした。そして、ふふ、と笑う。
「オレもね、オレたちが未だに苗字で呼び合って、オレが敬語なのは、きょうやちゃんがオレに恐怖政治を布いてるからじゃないかって」
「何それ、むしろ毎日つなにいじめられてるのはぼくの方でしょ」
「きょうやちゃんが可愛いのがいけない」
綱吉が膝の上の新妻の腰を掴んだ手にぐっと力を込めると、雲雀は仕方ない、という風に顔を寄せて目を閉じる。
「……味もわからないくせに高い酒飲んで、」
唇が離れ、はふ、と上気した頬で息をついた雲雀が毒づくのに、ぺろ、と光る唇を舐めた綱吉は、味にはうるさいのに酒に弱いきょうやちゃんが楽しめるようにね、とうそぶく。綱吉の首の後ろへ両手を回したまま、ほざいてなよ、とぷいと横を向いた雲雀を抱えて、綱吉はリビングの扉をくぐった。間もなくして、シャワーを使っている水音が、廊下の向こうからかすかに響いてきた。
「………………、」
綱吉に毛布を掛けられた辺りから目が覚めていた獄寺と山本は、床に転がったまま、なんともいえない表情で顔を見合わせた。
「…………誰だったんだ、いまの」
呆然とした獄寺の呟きはわからなくもないが、
「……ツナとヒバリだろ、」
山本もそれ以外に答えようがない。
未だに敬語の夫婦が心配だったのは嘘ではないが、「あの」雲雀恭弥との新婚生活とはどんなものなのか、下世話な興味がまったくなかったといえばそれは嘘だ。綱吉もそれには気づいていたのだろう。変な好奇心など持つのじゃなかった、と珍しく山本は後悔した。獄寺は、尊敬する十代目の秘密めいた夫婦生活を覗き見てしまったことに気が咎めているようだが、
「ツナの奴、笑ってたのなー……」
「は?」
リビングの扉をくぐる一瞬、綱吉は床に寝ている二人の方をちらりと流し目で見やって、ふ、と唇の端を吊り上げた。目を覚ましていた山本と、間違いなく視線はかち合っていた。
「すっげーどや顔だった」
「意味わかんねーよ」
マグロよろしく転がったまま、ぼそぼそと会話する二人の耳に、浴室の扉が開く音が聞こえて、ぴたりと口をつぐんだ。夫婦の会話が低く響いているが、内容までは聞き取れない。ごそごそと少し物音がして、ぱたんと洗濯機の蓋が閉まる音、ドライヤー、それからくすくすと密やかな笑い声が艶めいて、そして、ふっと掻き消えた。寝室の扉が閉まったのだ。しん、と静まり返った沢田邸で、何事かを想像してしまい、山本と獄寺はわずかに頬を赤らめた。
「……水、飲むか」
「そ、そーだな、」
綱吉が置いて行ってくれたピッチャーを持ち上げた山本は、しかしがっくりとうなだれた。コップがなかった。頭から被ろうかと思って、思うだけでやめた。
「山本、獄寺君、朝ご飯、できたけど。食べられそう?」
翌朝、綱吉にそっと揺り起こされた二人は、ぼんやりと起き上がった。リビングにはだしの香りが漂っている。山本にはそれがインスタントの顆粒だしではなく、昆布とかつをぶしから取ったものだということがわかった。和食ということは作ったのは雲雀であろうが、姿が見当たらない。山本の内心の疑問に気づいたのかどうかはわからないが、急須から緑茶を注ぐ綱吉が、済まなさそうに答えをくれた。
「雲雀さんはさっき呼び出しがあって出かけちゃったんだー。一緒に食べられたら良かったんだけど、」
「や、いまさらそんな気ぃ使うなよ」
獄寺とアイコンタクトを取る。正直、ありがたかった。綱吉と雲雀がもう十二分に申し分のない「新婚さん」だということがわかった直後で、4人で向かい合って朝食など、どうしていいかわからない。
「ごめんねー。風呂沸かしといたから、ご飯食べたら入ってよ」
「おー、さんきゅ」
「すみません、何から何まで」
「何言ってんの、招待したのはオレなのに、風呂にも入らせないで床に寝かせてごめんね」
「オレら酔っ払っちまったからしょーがねーよ、悪ぃな」
食卓を見て、普段の食生活が一番すさんでいる獄寺が、おお、と小さく感嘆の声を上げる。老舗旅館の朝食のようだ。さあ座って、という綱吉も、ちょっぴり誇らしげである。
「うま……」
味噌汁に口をつけた獄寺が、思わずと言った風に呟く。わかめと豆腐とねぎの定番の味噌汁が、深酒のあとの身体に染み渡る。朝食の献立には一点の手抜かりもなかった。立ち上る湯気から、雲雀のせせら笑いが聞こえるようだった。もうわかった、よくわかりました、二人が口から砂糖を吐きたくなるような極甘の新婚さんであることも、あの雲雀恭弥がちゃんと奥さんしていることも、実は主導権を握っているのが綱吉の方であるということも。だから、
「もう雲雀さんの引越し荷物も片付いて落ち着いたし、二人とも良かったらまた遊びに来なよ」
ぴかぴか笑顔の綱吉に、オレが悪かったからもう勘弁してください、と即答しなかった自分を褒めてやりたい、と山本武は考えるのだった。
雲雀さんが群れててすみません。
結婚しても苗字で呼び合う夫婦の舞台裏。
2011年2月11日
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