(中学生。夏のはじめ)
梅雨入り間近、本格的な夏ももう目の前だ。空調を入れるには早い、けれど締め切っていれば蒸し暑くて、風呂上り、綱吉は、窓を開け放って、うちわを片手に、さてこれから寝るまでの時間、ゲーム、漫画、テレビ、どうしようかと思案の最中だった。
机の上のグラスが、からん、と涼しげな氷の音をたてる。雲雀に教えてもらった、水出し緑茶は綺麗な翡翠色だ。熱いお茶は渋くてあんまり、という綱吉にも、ほのかな甘みが美味しく、ごくごくと飲める。
金曜の夜、一週間の中でも、特に心が弾む時間のはずなのに、綱吉の顔色はさえない。
(雲雀、さん、)
顔を見たい、声を聞きたい。今週はほとんど会話もなかった。二人きりで会った時間は皆無だ。今日も学校で一度、廊下ですれ違っただけで、綱吉は黙ってぺこんと頭を下げて、雲雀は真っ黒の瞳を動かして視線を寄越した。残念ながらお互いに一人ではなく、言葉を交わしてもいない。そのくらいなら、いっそ顔も見られないほうが、辛くない気がする。
明日は土曜日、寝て朝が来たら、いくらでも理由をつけて、きっと雲雀が仕事をしているであろう応接室に押しかけて、会うことだってできる。それなのに、
(明日ゆっくりじゃなくて、今5分でいいから、顔見て話したい)
こんな時、携帯電話があればと思うが、奈々は高校生になるまでは買い与えるつもりはないと言うし、小遣いでどうにかなるものでもない。雲雀の携帯電話の番号は知っているけれど、大所帯の沢田家の、誰もが簡単に聞き耳を立てることができる自宅の電話で何が言えるだろう。
冷茶を飲み干す。並盛町の外れの、隣町へと続く林道沿い、雲雀家が所有する山の中に二人で作った秘密基地へ行こうか、と思う。暗くなってから一人で行くと、危ないといつも怒られるけれど、約束がなくてもあそこへ行けば会える気がして、自転車を漕いではしょっちゅう行っていた。
(でも、家にいて会えないなら仕方ないと思えるけど、あそこに行って会えなかったら、余計にがっかりする)
経験から、それもわかっている。
(みんなには秘密にしたいって言ったのはオレなのに、わがままだ)
まだ20時にもなっていないけれど、今夜はもう眠ってしまおうか。氷だけが残ったグラスをとん、と置いて、はあ、とため息をついた綱吉は、その時、開いた窓から聞き慣れた重低音を拾った気がして、腰を浮かせて動きを止めた。
低いエンジンの音が、だんだん近づいてくる、ような気がする。雲雀の乗る、カタナのエンジン音に似ている、ような気もする。
窓の外を見たい。期待が外れるのは辛い。座ることも立つこともできないでいるうちに、音は沢田家の前で止まった。どっどっどっどっ、と、アイドリングが響き渡る。とん、と窓の外、ひさしに足音がした。
「ぎっくり腰?」
「……違います。」
中腰で固まっている綱吉に、あんまりな言葉がかけられる。二階の窓の外から、そんなことができるのは、一人しか知らない。
「雲雀さん、」
ぱっと窓に近寄る。珍しく私服の雲雀が、やっと残照も消えかける、夏の初めの夜の空を背にして立っている。
会いたいと思ったときに、会いにきてくれたことが、嬉しい。
「いま、時間ある?」
「っ、はい!」
ほかに言葉もなくて、こくこくと頷いた。スニーカーを脱いだ雲雀が、窓を越える。
「出かけるよ」
「どっ、どこへ、」
「ないしょ」
ふふ、と笑って雲雀は、立ったままの綱吉の足元にしゃがみ込むと、ポケットから小さな褐色の瓶を出した。中身を指にとって、ハーフパンツを穿いた綱吉の、足首と膝裏にちょんちょんと塗る。清涼感のある香りが立ち昇る。
「なんですか、それ」
「薄荷油」
「ハッカ?」
「虫除けだよ」
手首と肘の内側、耳の後ろにも塗られて、鼻がすうすうする。暑さが少し遠くへ行くような、爽快な感覚。雲雀からも香っている。
「下は長いの穿いておいで」
言うが早いか、黒いTシャツはもう窓の向こうだ。鮮やかな身のこなしをぼんやりと見送ってしまって、はっとして、それどころじゃない、とハーフパンツを脱いで蹴飛ばす。ジーンズは床に落ちている。
「ツナー?雲雀くん来てくれたみたいよー?」
「知ってる!」
階下からの奈々の呼びかけに、大声で返事をして、転がるように階段を下りた。
「出かけてくる」
夜の外出でも、雲雀くんなら先輩でしっかりしてるし安心だわ、という反応しかない。行き先を訊かれもしなかった。知らないということは恐ろしい。が、雲雀恭弥がどんな人間か、だなんて、もちろんわざわざ説明したりはしない。行き先も、訊かれたところで「ないしょ」なのでどっちみち答えられはしない。綱吉自身は、今は、雲雀と一緒ならどこだっていい、という気持ちなので、どこだって構わない(「最近駅裏にいる群れを咬み殺しに行くよ」なんて言われることもあるので、こんな気持ちになることは、双方にとって残念なことに、滅多にない)。
以前はいちいち怯えた二人乗りも、もう慣れたもので、投げて寄越されたヘルメットをかぶると、ぴょいと飛び乗る。
「じゃ、行くよ」
「はあい!」
口調が浮かれてしまうのは仕方がない。恐いからしっかりつかまっているんです、という顔をして、ぎゅうっとくっつくと、バイクの振動とは違う揺れ方で、雲雀の背が揺れた。笑っている。綱吉の思惑など、見透かされている。じゃあいいや、と開き直って、暑いのも構わずしっかり擦り寄った。信号待ちで、お腹に回した手を、とんとん、と上から軽く叩いてくれる。
そのまま、林道沿いの秘密基地へ行くのかと思えば、バイクは進路を変えて、並盛神社の裏手に回っているようだった。
「着いた」
雲雀がバイクを停車させる。むっとして暑いヘルメットをすぽんと取る。さやさやと風が頬を撫でて、気温は変わらないはずなのに、涼しく感じる。
すっかり暗くなった空を、茂る木々が覆い隠して、ぎざぎざに切り取った先はさらに暗い。風で梢が触れ合う音に混じって、かすかな水音が聞こえた。境内に湧き水があって、参拝者に振舞う湯茶や、手水に使われているが、それを源流とした小川があるのだ。蛙も鳴いている。
「こっち、足元気をつけて。蛇も出るからね」
「へびっ!?」
ヘルメットをバイクに引っ掛けると、ライトを持って先に立って歩き出した雲雀は、そんなことを言って、怯えてまとわりつく綱吉をにやにやしながら見ている。
「雲雀さん、意地悪い」
「蛇に言いな、」
言いながら、手を差し出してくれるのだから、むう、と膨れた綱吉も、それに飛びつくより他にない。ライトを持った手と、繋いだ手と、戦闘狂で警戒心の強い雲雀が、綱吉となら両手がふさがっていてもいいと思ってくれるのが、嬉しい。
真っ暗な林の中、人が踏み固めて自然とできた細い道を、がさがさと足音をたてて進む。水の音が近づいてくる。
「沢田、さっき、僕に会いたいと思ってたろ、」
どこへ行くのか改めて訊いても教えてはくれず、足元を見て黙って歩いていると、ふと、雲雀がそんな風に言った。
「……どうして」
そんなわけはないのだけれど、窓辺で、冷茶を飲みながら雲雀を想っていたのを、どこかから見られていたのじゃないか、なんて、被害妄想めいた気持ちが湧いてきて、恥ずかしくなる。
でも、雲雀の答えは難しいことは何もなかった。簡単な理屈だった。
「だって、僕が沢田に会いたかったから」
自分だけが相手に会いたいなんて、そんなはずがない。言い切られて、どこか泣きたいような気持ちになる。
「なにそれ、」
自信過剰、なんて、ひねくれたことを言ってしまうのに、優しく、指を絡めるように繋ぎ直される。
「違った?」
くすくすと余裕げに笑われて、頭に血が上った。
「っち、がわない、ですっ……今日は廊下で会っただけで、しゃべったりできなかったし、ちょっとでいいから、顔見て、話したくて、明日になったら応接室に行こうって思ったけど、それも待てなくてっ、お、オレが、オレたちのこと、秘密にしたいって言ったのに、そんなの、」
雲雀が、優しいから、優しくしかえしたい、と思うのに、優しくされると、わがままで勝手な言葉が、ぽろぽろとこぼれてきてしまう。
「沢田、」
繋いでいた手を、ぱっと離されて、綱吉はびくりと立ち竦んだ。わがまま言ってごめんなさい、呆れないで、嫌わないで、言葉にならない想いが喉につまって、ひく、と引き攣る。動けないでいる綱吉の背後へ回った雲雀は、一度、ぽふぽふ、と茶色のつんつんの髪を撫でたあと、右手で綱吉の目を覆って、ライトを握りこんだ左手をそっと腰に添えてきた。
「沢田、大丈夫だから、このまま歩いて」
耳元に低い声が落ちる。背中に雲雀の胸が触れる。ぐしゃぐしゃになった気持ちを宥めるように、こめかみの辺りに頬ずりをされる。薄荷の匂いがする。
「……はい、」
目隠しの状態のまま、ゆっくり前に進む。真っ暗で周りが見えないと思っていたのに、それでも目をふさがれるのは心もとない。足元で草がかさかさと鳴る音、どんどん近づく水の音と匂い、背中とまぶたから伝わる雲雀の熱、視覚以外の感覚が鋭くなる。支えられながらよたよたと進んで、十歩ほど行ったところで止められた。目を覆っていた手が外れて、後ろから抱き込むように、お腹の前で両手が交差した。
「いいよ、目、開けて」
まつげが濡れているような気がするのは、気のせいだ、と自分に言い聞かせて、ゆっくりとまぶたを上げる。
「う、わ……ぁ」
そこに広がっていたのは、無数の蛍火だ。乱舞、と言っていいほどの数の蛍が、ふわふわ、ゆらゆらと、闇の中で明滅を繰り返している。
「ここまでにも結構いたけど、『足元に気をつけて』って言ったから、下ばかり見てて気づかなかったでしょ」
お腹に回した腕にぎゅっと力を入れて、悪戯が成功した子供のように、嬉しそうに雲雀が笑う。綱吉はその腕に自分の手を重ねる。
「……すごい、」
小さな水の流れと、その脇の背の高い草むら、そこにちらちらと黄緑の光を投げかけて蛍が飛び交う光景に、感嘆の言葉をこぼした途端、制御を失った涙の珠が、ぽろりと頬を転がり落ちた。一つ落ちれば、あとは、二つ、三つと続いてゆく。
「泣かないで」
熱くなった目の端に、柔らかく唇が触れる。後ろから抱きかかえるようにされて、肌は汗ばんでいるはずなのに、不快な暑さをちっとも感じない。
「……沢田が僕に会いたいと思ってるとき、僕も沢田に会いたいと思ってるよ。今日みたいに会いに来られなくて、沢田を一人で山に行かせてるとき、僕も寂しいと思ってる」
「っく、」
嗚咽をこらえて、喉がおかしな音で鳴った。情けない、と思うのに、涙が止まらない。
「泣いてたら蛍、見えないよ……ああ、ハンカチ忘れた、早く会いたくて、慌てて出てきたから」
くる、と身体を反転させられる。そのまま、ぎゅっと顔を胸に押し付けられて、綱吉は雲雀の背に腕を回してしがみついた。
「沢田が秘密にしたいって言うのは、半分は僕の風紀の仕事に影響が出ないようにって思ってくれてるのも、わかってる」
頭を撫でられて、何を否定しているのか綱吉自身もよくわからないまま、ぶんぶんと首を横に振った。
「……ねえ、沢田、会いたかったって、寂しかったって言って?」
その言葉に、しばらくは目も口も、ぎゅっとつむっていたけれど、おねがい、と耳元で甘くねだられて、おそらく涙と汗でぐしゃぐしゃであろう顔を、のろのろと上へ向けた。ず、と鼻をすする。
「ひ、ひばりさんに、あ、あいたかった、さみしかった……っ」
こつ、と額をあわせて、雲雀が頷く。
「僕も沢田に会いたかった。廊下ですれ違った後、寂しかったよ。沢田が同じ気持ちで、寂しいけど嬉しい。これは、わがままじゃないよ、当たり前のこと」
ちゅ、と唇が鳴って、それからTシャツの裾でごしごしと顔を擦られた。顔を見合わせて、綱吉はやっと笑った。
「並盛で、こんなたくさんの蛍が見れるなんて、知らなかったです」
ようやく涙も止まって、二人で並んで蛍を見る。これほど見事なら、有名になっていそうなものだが、必死にパートナーを探す蛍たちのなか、人間は綱吉と雲雀しかいない。
「ここは一応、禁足地ということにしてあるからね」
「え、それなのに入っていいんですか?」
「いいんだよ、別に何か謂れがあるわけじゃない。ここを禁足地に定めたのは僕だ」
事も無げに言われて、綱吉はぽかんとして雲雀を見る。
「……去年、宮司のじいさんが死んだろう」
「はい、」
奈々が慌てて葬式へ出て行って、代わりにビアンキが夕食を作って大変な騒ぎになったので、よく覚えている。
「それを継ぐ人間が見つからなかった。今、並盛神社は風紀委員会が管理してる」
「そうなんですか!?」
いったいどこまで手を広げているのか、雲雀がやたらと忙しいのも道理である。驚いて、それからふと、十年後の世界のことを思い出した。並盛神社は雲雀のテリトリーだった。直接、あの未来へは繋がっていないとしても、共通点はあるのだろう。
十年後、綱吉は雲雀と共に立つことができているだろうか。
(――ううん、できるように、する)
今、このときも、いずれ来る未来への一部であることに違いない。だったらずっと、雲雀といたいと思い続けていたなら、そして、綱吉が苦手な「努力」というやつをしさえすれば、十年後だってこうして一緒に蛍を見ているはずだ。ぎゅっと腕にしがみつくと、今日は沢田が甘えっ子だね、と言って雲雀が笑う。
(雲雀さんには、言わないけど)
でも十年後も、その先も、一緒にいて欲しい。雲雀が嫌だと言っても、逃がさない。
「……覚悟してください、」
「うん、いいよ」
綱吉が決意を込めて呟くと、雲雀は何と思ったのか、嬉しそうに笑って頷いた。
2010年6月13日ひばつなオンリーイベント「Blue Cloud U」にて配布させていただいたペーパーより再録。すっかり忘れていて季節はずれの再録になってしまいました。「泣かぬ蛍が身を焦がす」って名前で保存してましたが、それじゃタイトルでネタバレだと。(2011年11月2日)
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