日暮れのはやい早春の夕方の僅かな時間をぬって、野球部員が練習に励んでいる。寒さに震えながらも女子に混じって声援を送り、それでも空が自分の炎のような色に染まれば、暗くなる前には帰ろうかと思う臆病な綱吉である。
もう、彼に勝てる人間などそうそう居やしないのに。
打撃練習に汗を流していた山本武が先輩と交替し捕球にまわるのを良い機会にして、フェンスにぐるりと背をむけた綱吉は、帰ろうとして目の前の大きな壁に気づかずに顔から思い切りぶつかった。背後に人が立っているのに、振り向いてしまったのだった。ずいぶんと体格の大きい生徒である。
「ぶっ……痛って、スイマセン、」
鼻と額を擦りながらもごもごと不明瞭に、謝罪なんだか文句なんだかよくわからない言葉を口にして目を開ければ、顔からは血の気が引いた。視界一杯に広がっているのは学ランだ。つまり、風紀委員だ。有名すぎる、その名を口にするまでもない委員長、雲雀恭弥の統率の元では、それはそれは頼もしい、並盛中学の風紀を守る集団だが、末端の一人ひとりは不良、単なるならず者の集まりである。カツアゲ、それならまだいいが暴力などということになれば、級友達にぶたれるのとは比べ物にならない。マフィアならともかく、綱吉は同じ中学に通う人間の前で炎を出す気はない。つまり、逃げる手立ても勝ち目もないということだ。やばい、やばい、冷汗をだらだら流しながらゆっくりと顔を上げれば、何ということはない、立っていたのは草壁哲也だった。すでに夕闇が辺りを塗りつぶし始め、黄昏時、見上げるほど高い位置にある顔は表情が読みにくいけれど、草壁ならばカツアゲも暴力もないだろうと安心して、ほっと息をついた。
「草壁さん、すみません、後ろに居るって、気づかなくて、」
「こっちこそすまん、……すまんが、応接室へ行ってくれるか、」
「えっ」
一瞬、どうして、いやだ、こわい、帰りたい、様々なネガティブな感情が正直に面に表れてしまったのを草壁は確かに見たはずだったが、雲雀の忠臣はそれを咎めるでもなく苦笑した。
「すまんが、行って貰えるか、」
重ねて謝られて、薄闇の中でも目が合った。その時ちょうどグラウンドに夜間練習用の投光器が持ち出されて、ぱっと明るくなった。何故か草壁は、苦笑いの他に、思い悩んでいるような、思い遣っているような、複雑な、でもとても優しい色を表情に混ぜていた。綱吉にどうか断らないで欲しいと、思っているのだとわかった。
「……はい、」
ああオレのバカ、わざわざ面倒に首をつっこんで、返事をした先からもう後悔しながら了承すると、草壁は、すまんな、とさらにもう一度言ってそれから顔を緩めた。珍しい、穏やかな笑顔だった。それでもう綱吉はそれ以上草壁と言葉を交わすこともなく、ぱっと背を向けて応接室へ向かった。
ぱたぱたと足音を立てて、とても巨大マフィアの次期ボスとは思えぬファンシーな走り方で夕闇の中へ消える小さな背中を、草壁はじっと見送っていたけれど、野球部員の金属バットが、キン、と高い音をたてたのにはっとして、それからため息を一つ、ゆっくりとそこから立ち去った。
校内は暗かったが、部活の終わった生徒達がうろうろしていて、ぼんやりと薄暗い中で体操着やTシャツの白ばかりが目立って、表情は分からないのっぺらぼうのようだった。廊下を走れば雲雀に叱責されるかもしれないということも忘れて綱吉は、のっぺらぼうたちの間を縫って応接室へ急いだ。
「あの、オレです、」
はあはあと息は荒く、ノックしてドアノブに手を掛けながら、オレオレ詐欺か、と内心で自分に突っ込みを入れる。ぐっと戸を押すと、中から、ワンテンポ遅れて、えっ、とか、あっ、とか、雲雀らしからぬ慌てたような声がした。暗い廊下から急に、皓々と蛍光灯の灯った室内に入って、綱吉は眩しげに目を細めた。
応接室では、部屋のあるじ、雲雀が、見慣れたいつものデスクに腰掛けて書類を眺めている……のではなかった。綱吉は彼女がそんなところに立っているのを初めて見たが、給湯スペースで何かごそごそとやっている。
「っ、な、何、」
あの雲雀が、どもっている。焦っている。何をやっているのかはわからなかったが、骸に叩きのめされた時にだって大して動じていなかった彼女がこんな風に動揺しているところを、ダメツナである自分が目撃してしまったことに酷く気が咎めて、ノックの後、返答を待ってからドアを開ければよかった、と綱吉は後悔した。
「あの、草壁さんに、呼ばれたんですけど、」
それでも黙って立っているわけにもいかず、開くでも閉じるでもない中途半端な扉の影から、顔だけを出して覗き込むように声をかけると、雲雀は何故か虚を衝かれた様子で目を見開いた、ように思ったが、ほんの一瞬だったから、綱吉の思い過ごしかもしれない。かさかさ、となにか紙をたたむような音がして、それから、入りなよ、とらしくなくか細い声で返事があった。
「……草壁が、なんだって?」
「えと、さっきグラウンドで、山本の、野球部の練習見てたら、草壁さんが、ここに行ってくれって、」
違いましたか、と訊き返すと、短くても艶やかな黒髪をがりがりとかきむしってから、違わない、と返事があった。
「この、書類、倉庫まで運んでくれる、」
「はっ、はい、」
二月の半ば、雲雀の卒業まで後ひと月だ。三年間、この学校の政治を握っていた雲雀が出てゆく。風紀委員は存続し、高校に進学する雲雀の判断を仰いで活動するようだが、それでも、応接室は片付けられて、閑散としている。並盛中学についての全ての書類、体育倉庫の雨どいの修理というような些細なことから新任教師の身上調査なんて法にかかるようなものまで、分別され、ファイリングされ、段ボールに入れられている。雲雀が居なくても、この残された書類でおおかたのことは判断できるように。
「倉庫って、職員室の脇の、」
「そう」
綱吉が手近の小さめの箱を一つ抱えると、雲雀は箱の中でも一番大きくて重そうなものを抱えたので、少し恥ずかしくなった。
数回、応接室と倉庫を往復して、全て運び終えるのに二十分ほどかかっただろうか。ふと、風紀委員を呼べば、雲雀自身が運ばずとも一度で終えられる仕事なのに、なぜ綱吉が呼ばれたのだろうか、と疑問に思ったが、雲雀の行動はよくわからないから、とそれだけで自己完結してしまった。意識してそうしているのではなかったけれど、綱吉には雲雀に対して、理解しよう、という気持ちがまったくなかったのだった。最強であり最凶である、ということだけ知っていれば満足だった。それ以外の一面があるなんて、思いもしなかったのだ。
この日まで。
「日が落ちた、」
段ボールを運び出して、ますますがらんとした応接室で、埃のついた手を洗って、ふと窓の外を見た雲雀がぼんやりと呟いた。早春の黄昏は短く、もう夜の帳が下りている。帰らなきゃ、言おうとした綱吉の顔を、雲雀がじっと見たから、とりあえず口をつぐんだ。
「……甘いもの、」
「え?」
少し言いよどんで、ぼそりと雲雀が何かを言った。聞き取れなかった綱吉は聞き返したが、ふいと横を向いた白い頬と揺れる黒髪が見えただけだった。
「手伝いの駄賃だ、」
給湯スペースにある一口のコンロに、雲雀がかちんと点火する。そこには、小鍋が乗っている。脇には、濃いココア色に汚れたナイフと、小さなカッティングボード。
「ホットチョコ、」
「君はこういう甘ったるいものが好きそうだ」
小さな鍋はすぐに温まって、甘い香りを漂わせた。いつもは砂糖もミルクも入らない紅茶やコーヒーばかりが注がれる白いカップに、赤みを帯びた薄い茶色の、どろりとした液体が満たされる。
ソファに座り、ほら、と渡されて、ありがとうございます、と受け取って、ためらってから口をつけた。チョコレートの刻み方が荒かったのか、よくかき回さなかったのか、舌触りはざらざらして、甘さ控えめのチョコで作ったのだろう、カカオの香りはするが見た目よりも味は薄かった。よく見れば、雲雀の指先の、短く整えられた爪の間にチョコレートが入り込んで黒く染まっている。この部屋でいつも茶を淹れているのは草壁か、他の風紀委員だったし、雲雀はこういったことには慣れていないのだろう。
むしろ、なぜ今ここに、ホットチョコレートの材料がそろっているのだろうか。溶けきらなかったチョコレートの欠片が沈むカップの底が見えてきた頃、やっとその疑問に思い当たって、綱吉は内心で首をかしげた。猫舌らしい雲雀は、大して熱くもないホットチョコレートをふうふうと吹いて、まだ半分ほど残っている。自分が使ったカップを洗ってしまおうと流しに向かって、そこに置き去りにされた鮮やかな色彩に気づいた。リボンと包装紙と小箱、チョコレートのパッケージだ。リボンに、半分破れた、元はハート型だったらしい金色のシールが貼りついている。浮き上がるように加工された文字は「Happy Valentine's day」。
綱吉は驚いて声を上げてしまわなかった自分を心中で盛大に褒め称えた。バレンタインは三日も前だった。学校では風紀委員の取締りが厳しく、この時期の雲雀は特に学校中の人間から恐れられ、また、恨まれてもいた。雲雀が誰かからチョコレートをもらうはずがない。つまりこれはおそらく、
(雲雀さんが誰かのために買って、渡せなかったチョコレートだ、)
心臓が緊張に痛いほど打って、なんでもない顔をするのに苦労した。震える手を押さえつけてカップとナイフとカッティングボードを洗った。ようやく飲み終えた雲雀がカップを持って近づいてくる。
「あ、あの、それ、ついでだから、オレ、洗います」
泡だらけの手を差し出すと、そう?ありがとう、と、とすんと空になったカップを乗せられる。そのぬくもりに何故か赤面する。間近で見た雲雀の顔、濡れてほんのり光っている唇。時々、朝の持ち物検査で、乾燥からか血のにじんでいることもある、真っ赤な唇に、今はリップクリームが塗られて、つやつやしている。白いカップに、雲雀の唇のあとが、ついている。
(雲雀さんって、ほんとの、ほんとに、女の子なんだ)
もちろん、綱吉は雲雀の性別なんて知っていた。翻る学ランの下のセーラー服。揺れるひだのスカート。ただしそれは、あくまで記号上のことであって、生物学上、雄か雌かどちらに分類されるのかを知っていた、というだけのことに過ぎない。
(それでもって、好きな人が、バレンタインにチョコレートをあげたかったような人が、いるんだ)
知らない人を見るように、尖った横顔を盗み見た。この日、はじめて綱吉は、雲雀恭弥を女性として意識したのだった。
それからしばらく綱吉は、お返しをすべきか悩んだ。常識で考えれば、する必要はない、というか、しない方が良い。あれは綱吉には「手伝いの駄賃」の飲み物だったのだから。けれど、雲雀にとってはバレンタインチョコだったのだ。あの雲雀が、赤とピンクと甘い香りの中へ飛び込んで、誰かのために選んで買ったのに、それをなかったことにしてしまったのだ。綱吉の同情なんて、彼女には屈辱かもしれないけれど。
「あのっ、雲雀さん、ご、ご卒業、おめでとうございます!」
門出にふさわしい晴れ空の下、綱吉は卒業証書の入った筒を持った雲雀を決死の覚悟で呼び止めた。ホワイトデーに卒業式が執り行なわれたのがありがたかった。
女に渡す花なら薔薇だ、とリボーンに言われ、けれど赤なんて気恥ずかしく、ピンクは雲雀のイメージではない。白は卒業式には寂しすぎて、迷いに迷って、オレンジ色の薔薇のつぼみ、一輪に、紫のリボンをかけて、何の情緒もなく、握り拳でぐっと突き出した。
これは、雲雀や、世間から見たら卒業祝いだろうけれど、綱吉にとってはチョコレートのお返し、ホワイトデーの贈り物なのだ。
「…………ありがとう、」
まさか綱吉から卒業祝いを、花を貰うとは思っていなかっただろう雲雀は、数秒呆けていたが、おそるおそる、という様子で、一輪だけの薔薇を受け取った。前日の夕方につぼみで買った花は、三月の昼間の陽気を受けて開き始めていた。信じられないように自分の手の中を見る並盛の風紀委員の頂点に立つ少女は、それをゆっくりと回しながら眺め、そっと顔に近付けた。口付けのようにも見えた。
「いい匂い、」
小さな声で呟いて、それからほんの僅かに、けれども間違いなく、唇をほころばせて微笑んだ雲雀こそが、咲き初めの一輪の薔薇のようだった。
雲雀が誰に渡すつもりであのチョコレートを買ったのか知りたい、と綱吉は強く思った。恋が始まった。
今日の日付を言ってみろよ!
すみません。
2012年3月23日
|