三年ほど経って新しい丑三ッ刻水族館がすっかり軌道に乗った頃、隣の逢摩市の、逢摩ヶ刻動物園、ヤツドキサーカスと、合同企画の話が持ち上がりました。公営が多い水族館、動物園には珍しい私設同士、仲良くやりましょうといったところでしょうか。合同企画と言っても、サーカスとは違って施設ごと移動できるわけではないですから、期間内に両方の施設を訪れたお客様に粗品を差し上げるだとか、その程度の話です。ただ他にも、お互いの施設紹介のパネルを設置したり、特別パンフレットを作ったり、細かな話の擦り合わせが必要だったので、水族館と動物園を何度も行き来しました。そんな時、動物園でバイトさんと再会したのです。
「こんにちは!お久しぶりです」
彼女は相変わらず元気でした。いつかのように缶ジュースを差し出されて、少し話をしました。
「もううちでお仕事はしないのですか?」
「私、もともとここの従業員で。あの時は、水族館が大変だったから、ちょっと無理言って手伝わせてもらってただけなんです」
動物園の飼育員の制服を着て、胸に名札をつけていました、「蒼井」と。私が何を見ているのか気づいたのでしょう、(元)バイトさんは恥ずかしそうに笑いました。
「うちの人、皆さんに酷いこと言ったり無茶を押し付けたりしてないですか?」
「……館長の、奥様、でしたか、」
さすがに驚きました。初対面から三年経って、さすがにもう女子高生とは思いませんでしたが、それでも飾り気もない少女めいたバイトさんと、館長という役職としては若いと言っても、おそらく三十代も半ばを過ぎていると思われる蒼井館長が結びつきませんでした。だからこそあの時、不倫、などと馬鹿げたことを考えたのです。けれど理解してみれば、辛辣な館長を時に諌めるようだったバイトさん、いえ、蒼井さんの態度や、どこか得体が知れないと八年経った今でさえ思ってしまうことのある館長が、彼女といる時にだけ見せたあの顔、手がかりはいくつもあったのでした。館長の指輪と、指輪のない蒼井さんの手も、誤解をしてしまった原因ではありますが、動物の飼育に携わる者はアクセサリーはしないのが普通です。本業は動物園の飼育員だという蒼井さんが、水族館でも指輪を外していたのは、当たり前と言えば当たり前でした。
「あの時は、言ったらお互い仕事がやりづらいかと思って……ごめんなさい」
「いえそんな、謝らないでください」
蒼井さんの言う通りで、むしろ私の方がその気遣いに感謝すべきでした。
「ご夫婦でお忙しいと、いろいろ大変でしょう?」
「私もあの人も、職場に泊まりこんで帰らないことが多いんですよね。ふふ、今日は久しぶりに帰ろうかな」
「館長に伝えておきましょうか」
「ありがとうございます。じゃあ、うーん、ダーリンも今日は帰ってきてね待ってるわ、って言っておいてください」
「ダーリンですか、それはちょっと私にはハードルが高いですねえ、」
ひとしきり笑ってから仕事を済ませ、水族館に帰って、私はわざと、たくさんの従業員の前で蒼井さんからの伝言を伝えました。その時の館長の顔を、多くの者が見たでしょう。恩義を感じてはいても、館長本人はとっつきにくい、とこぼしていた若者達も、館長に心を開くきっかけになったようでした。
その翌年、今から四年前のことです。雄のシャチ、そう、蒼井さんがサインが合っているのか確認していた、「サカマタさん」と呼ばれていたあのシャチです、彼が、病気になったことがありました。
獣医にはもちろん診せましたが、予断を許さない状況、ということで、トレーナーが交代で二十四時間の番にあたりました。水族館の名前と同じ丑三つ時のことです。私は、交替に来てくれた若手に後を任せて、仮眠を取ろうと休憩室に向かっていました。昔は深夜二時まで営業していたからこその丑三ッ刻水族館という名だったそうですが、従業員の交代があってからは夏休み期間などでもなければごくごく一般的な営業時間でしたから、その時ももちろん営業は終了していて、館内は非常灯以外は真っ暗でした。身体と、精神と、両方の疲労でふらふらと歩いていると、どこからかひそひそと声が聞こえました。それは以前館長が「愛されていると感じているか?」と茫洋とした瞳で見ていた、シャチの展示水槽の前でした。もちろんシャチは病気や怪我の海獣を隔離する特別なプールに移されていましたから、その時も水槽は空で、アクリルガラスにはお知らせのポスターが貼ってありました。そこに背を預けて、館長夫妻が、並んで、床に座り込んでいました。私がいるのには気づいていませんでした。静まり返った館内で、小さな声が私の耳にもはっきりと届きました。
「結局、俺はまだ、呪われてんだ、」
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