蒼井さんはこの逢摩ヶ刻動物園に一番長く勤めている飼育員である。勤続十年になるそうだ。でも、一番の古株ですね、と言えば、蒼井さんはいつも笑って首を横に振る。蒼井さんによると、ほとんどの動物が、蒼井さんより長くこの園にいる、ということだけれど、そうなると、昔はあの仕事嫌いの園長一人でかなりの数の動物の管理をしていたことになる。僕は蒼井さんの言葉を冗談か本気か判断を付けかねている。

 園長に「蒼井さんの言うことは本当ですか」と尋ねたこともあるけれど、「ワシゃそんな昔のことは覚えとらん!」(椎名園長は王子様のような容貌なのに昔話のおじいさんのようなしゃべりかたをする)と煙に巻かれてしまった。ならば園の資料は、と思っても、何故かこの動物園には、園史というようなものが、途中からしかない。飼育記録も、蒼井さんが個人的につけていたものしかない(普通の大学ノートに、あまり上手ではないウサギの絵が描いてあって、かわいい)。

 蒼井さんは、凄い人だ。年齢は、まだ二十六歳。高校生の時、アルバイトとして入ったのが最初だという。現在の担当は猛獣ゾーンだけれど、山の中の、敷地だけは無駄に大きなこの園の、すみからすみまで把握していて、朝から晩まで誰よりも忙しく働き、事務所で遅いお昼ご飯を食べながら、一番北の端の大花壇のムスカリが一株枯れているから植え替えなきゃ、だとか、自分の担当外の、ダチョウの羽毛が随分抜けてるみたいだけど、何かあったの?、なんて優しく訊ねてくれたりするから、僕らの間では、蒼井さんは「11人いる!」、というのが定番の冗談になっているくらいだった。

 また、若い頃から長く勤めていることを鼻にかけたりはせず、各種の動物図鑑は常に最新の改訂版をそろえているし(この動物園はどちらかと言えば薄給で、給料のほとんどをそういうものにつぎ込んでいると思われた)、レジャー施設の業界誌やTVの動物番組といったものまでチェックに余念がなく、新人の飼育員が大学卒や専門学校卒だと聞けば、ベテランの蒼井さんが逆にノートを持って最新の動物知識について質問攻めにするくらいの勉強熱心さだ。

 どこそこが壊れた、と聞けば、工具と板切れを持って誰よりも先に駆けつける。遠足で来る小学生や園児には蒼井さんのガイドが一番人気だ。動物の不調に気づくのもいつも一番早い。チーターの知多やライオンのシシドなど肉食獣の癖に彼女の前では家猫のようで、蒼井さんも彼らを恐れたことは一度もなかった。それでいて、お客さんの前で象に食事を与えるパフォーマンスでは、糞を踏みつけて転んだりするドジっ子属性を披露したりするものだから(象の岐佐蔵に鼻で抱きとめられて事なきを得、来園者からの評判はかえって高かった)、従業員からお客まで、いっそ「蒼井教」と言えるほどの「信者」がいるのだ。

 生き物を相手にする気を抜けない飼育員という仕事で、誰か一人に荷重が偏ってはいけないし、最後の最後で責任を取るのはやっぱり、椎名園長だ。それでも、僕ら飼育員の間では、まず、蒼井さんありき、というところがあった。頼っているとは思いたくなかったけれど、あまりにも偉大だったから。

「私、蒼井は、今年いっぱいで、この逢摩ヶ刻動物園を退職します。」

 夏になって暑くなると蒼井さんは元気だ。一番最初にこの動物園に来たのが、夏休みのバイトだったから、らしい。タンクトップ一枚で働く蒼井さんは、僕ら男性飼育員の一服の清涼剤でもあった。今年もそんな夏が来て、夏休みは捌ききれないほどの来園者を相手にして、それが過ぎ、トンボを見ながら一息ついているころ、そんな爆弾は毎日の朝礼で投下されたのだ。