目蓋の向こうに太陽の光を感じて華はゆっくりと目を開けた。隣で眠っているであろう人を起こさないように、そっと身体を起こしてぐうっと伸びをする。見ている者があればしなやかな若い雌猫が目を覚ましたように思ったかもしれない。

「ふあ、」

 大きなあくびをひとつ、睡眠は足りていないが、若い健康な食欲がこれ以上ベッドにいることを拒んでいる。ちらと隣を見れば予想通り、パンツ一枚の伊佐奈は痩身を胎児のように丸めてまだ熟睡中だ。華がごそごそしている震動をマットレスのスプリングから感じ取っているのか、ん、と眉が寄って、マッコウクジラの褐色の肌を持つ目蓋がぴくぴくと震えた。人間の顔は死体かと思うような寝顔なのに、鯨の顔は寝ている間も実に忙しない。マッコウクジラの大きなぎょろ目だけを半開きにして眠っているのを初めて見た時には内心、なんて気味の悪い寝顔、と思ったものだが、見慣れた今になると可愛らしく間が抜けて見えるのが華は自分ながら不思議だった。身体を屈めて、噴気孔のふちに唇を押し当てる。

 カーテンもない部屋は朝の光に満ちていた。タンクトップと下着だけを身につけて眠っていた華は床に落ちていた白いシャツを拾って羽織った。伊佐奈のシャツだが、この部屋に泊まるときはいつも借りているものなので、華の、とも言える。22pの身長差は膝上まで隠れるちょうど良い部屋着になる。この部屋は館長室の裏側にある伊佐奈の私室で、館長室からと、階下から上がってくる階段と、入り口は2か所ある。初めて入れてもらった時には、そのあまりの生活感のなさに、伊佐奈がここに住んでいると言われても信じられなかった。ベッドを置いた10畳と、シャワーを浴びるだけのユニットバスに、簡易キッチン。一通りの設備は揃っていたが、私物というものはほとんどなかった。簡易キッチンのシンクなど、蛇口をひねったら錆びた赤い水が出てきたのだ。驚いて、水飲まないの、と訊ねたら、隣の小さな冷蔵庫を指差され、酒と水しか入っていないその中身にまた眩暈がした。今そのシンクの蛇口からは澄んだ水がたっぷりと出て、顔だって洗うことができる。水玉模様のタオルは華が持ち込んだものだ。

 冷蔵庫を開ける。昨夜ここを訪ねる前に買い物をしてきたから、食材は十分にあった。定番で、6枚切り食パン、たまご、ベーコン、レタス。その前に、紙パックのオレンジジュースをコップ一杯、足らずにもう半分注いで飲む。朝日の中で詳細に説明するのもはばかられるが、真夜中に伊佐奈と、まあ年頃の男女によくある一通りを割りと念入りに(華には比較する経験がないが学校で友人知人の話を聞くに自分たちは「割と念入り」な部類に入るのではないかと思う)こなしたあと、シャワーを浴びる狭いユニットの中でさらにあれこれとあり、気絶するように眠ってしまったので喉が渇いて仕方がないのだ。不意にフラッシュバックした深夜の出来事に華は顔を赤く染めて、ぶんぶんと首を横に振る。

 ガス台は小さな一口のものがひとつ。湯を沸かす電気ポットとトースターをかねたオーブンレンジは、華がここに出入りするようになってから伊佐奈が増やしたものだ。電気ポットには半分ほど水を入れてコンセントをさす。レンジには食パン2枚を入れて、まだスイッチは入れない。100均で買ってきた小さなフライパンを小さなガス台にがこんと乗せて、油(次は必ず買って来よう、と脳内にメモする)の代わりにベーコンを入れて熱してからたまご2個を無理やり割り入れた。少し弱火にして、蓋がないので皿を被せておいて、今度はレタスをちぎって洗う。ボウルがないから一枚ずつだ。何気ないようで、生活に必要なものっていろいろあるんだ、と華はここへ来るたびに考える。綺麗なタオルでぱんぱんと軽く水気を取って、皿に置く。レンジの扉を閉めてトースターのボタンを押し、目玉焼きの様子を見る。

「伊佐奈あ、朝だよ、起きなよー」

 もう少し火が強くてもいいか、と調節しながら呼びかければ、ぐーだかむーだか、なにやら判然としないうめき声のようなものが聞こえた。今日は土曜日で、華は学校は休み、動物園は夕方からにしてもらっているが、週末の掻き入れ時、水族館は通常営業で当然館長も通常営業だ。

「朝の定例会議があるんでしょ、起きなさい」
「やだー……」
「……何が「ヤダー」だ可愛いこと言えば許されると思ってからにこのボンボンが、」

 ハッ、と鼻で笑って一旦コンロの火を消した華はのしのしとベッドに近づく。大きな歩幅にひらひらと白いシャツが揺れて太腿をくすぐる。オーブンレンジがトーストの完成を告げる電子音を高らかに響かせている。

「パンも焼けたよ、朝ご飯食べようよ」

 シーツをぐいと引っ張ると、伊佐奈はぐるぐると巻きついて蓑虫のようになった。

「おっさんがいい歳して何やってんの、」

 キモイ、と言ってやればシーツの中から、酷いこと言うんじゃねえよ、とぼそぼそとした呟きが返ってきた。もう目が覚めているのに遊んでいるのだ。甘えられている、と思えば何だか胸がむずむずした。

「コラッ、起ーきーろー!」

 笑いながら蓑虫の上に勢いをつけて跨る。ぐえっ、というかなり本気の苦しそうな低い悲鳴が聞こえて、華はさらにぐいぐいと体重をかけた。と、シーツの隙間からにゅっと手が出て、太腿を掴まれる。

「尻の感触がいいな、」
「ばっかじゃないの、って、わ、ちょっ」

 ばさ、とシーツの中に引き込まれて、華は大げさにきゃあきゃあと悲鳴を上げた。寝ているときは気づかなかったが一度離れてみればベッドは昨夜の性交の匂いが残っていて、笑いながら頭の隅ではもう一度シャワーを浴びた方がいいかもしれない、と朝の予定を考え直す。動物園で大上あたりに「華ちゃんから精液の匂いがする」などと言われたら立ち直れない。

「イタタタ、ちょっと、ひげ!ひげ剃ってよね、」

 人間の頬でぐりぐりと頬ずりされて逃げようともがくが、手は緩まない。

「お前今日は、」
「昼過ぎまではいるよ」
「じゃあ、昼飯にカレー作るんなら起きる、カレー」
「じゃあって何、じゃあって、あなたが遅刻しても私はなんにも困らないんだけど、」

 シーツの中で抱き潰されているのにだんだん息苦しくなってきて、どこまでも白い波をかき分けて顔を出すと、伊佐奈は朝の光に眉を寄せて嫌だ嫌だと華の胸に顔を押し付けた。もうそのまま窒息しやがれ、と脂肪に鼻と口を密着させるように両手で頭を抱えたが、そういえばこいつ数十分間は息とめていられるんだった、と舌打ちをした。ぎゅう、としがみつかれてそのまま静かになって、二度寝させてはまずいと焦る。

 いつも伊佐奈を起こすのは一筋縄では行かない。一度サカマタに、あれで朝から仕事が出来ているのか、と訊ねた時には、そもそも華が来るようになる前は眠っているところなど誰も知らなかったと言われた。食べず、眠らず、人間に戻りたいなどと言って自分から人間離れした生活をしてどうするのか、と思わず悪態をつけば、サカマタは大声で笑っていた。本人が言うところによれば性欲もほとんどなかったらしいから、呪いを解くことに躍起になるあまり、人間の三大欲求全てを遠ざけていたと見える。今は反動なんだろうか、と思う。

「……カレーって、シーフード?イカカレー?」
「違げえ、普通の、肉とイモとタマネギとにんじんの、肉は牛で、福神漬けもつけろ、」
「イカリングフライのせる?」
「イカから離れやがれ」