「……華、お前、呪われたのか?」
 よろよろと執務机の椅子に座れば、華はなごなごと意味を成さない鳴き声のようなものを発しながら、膝の辺りにじゃれついてきた。けれど、華がどれほど動物好きなのかよく知っている。子供っぽい、偽善的な正義を振りかざすこともあるけれど、それだけに酷く純粋な想いだ。呪われるような歪みを持ったとは考えにくい。
「ぅなん」
 大きな窓から早春の午後の柔らかな日差しが斜めにさし込んで暖めた床に、ぺたんと座り込んだ華が、伊佐奈の膝に頬を乗せた。髪を撫でれば、ぴこぴこと耳が動いた。
「華、」
「にゃっ」
 もう一度呼べば、本当の猫のように伊佐奈の膝の上に両手を揃えて置いてぐっと伸び上がった華は、伊佐奈の鯨の方と、人間の方と、両の頬を一度ずつぺろりと舐めた。その舌はざらざらしていて薄く完全に仔猫のものだったが、そのやり方がいつも照れながら伊佐奈にキスをする動作と重なって、やはりこれは間違いなく華なのだ、と知らしめた。
「ぁん、」
 考え込んでいると鼻の頭同士をぐりぐりとぶつけてきた。伊佐奈がキスを返さないのが不満らしかった。
「……はいよ、」
 顔を近づけると、華は伊佐奈を見たまま目を閉じずに寄り目になった。ふっと笑いながら唇を合わせようとすると、一瞬早くちゅうと唇に吸い付かれた。
「う、ん、」
 自分から向かい合わせに膝にまたがってきて、ぷにぷにした両手(どうやらご丁寧に肉球まであるらしい)は肩に置き、爪を立てて押さえつけるようにして、まるで伊佐奈が襲われているようだ。どうどう、と宥めるように腰に手を置くと、ちゅぱ、と可愛らしい音を立てて唇が離れた。文字通り気まぐれな仔猫ちゃんは一応満足したと見えて、しっぽをぴんと立て、うっとりと上機嫌のようだった。
 ふむ、とついさっきよりは多少落ち着いた頭で、もう一度考えてみた。華は、(伊佐奈を呪ったのと同じ呪い主に)呪われたのではない、と思う。華の性格上考えにくい、というのと、自分と同種の魔力の匂いがしない、というのと、何より、
「こら、」
 ネクタイをがじがじとかじって引っ張り出した華の額を人差し指でつんとつつくと、ネクタイの端を咥えたまま上目遣いに伊佐奈を見た。耳はさっと下を向いてしおらしい振りを演出しているが、しっぽは不満げにぱたんぱたんと暴れている。
「くそ、可愛い顔すれば何でも許されると思うなよ、」
 ……何より、姿がファンシーすぎる。伊佐奈も、椎名も、よくは知らないが志久万も、呪いをかけられた直後の姿は全身獣になって、しかし完全な動物そのものの姿でもなく、それでいて人の言葉を喋ることもできたから、酷く醜悪なものだった。同じ呪いの源から、こんな風に、耳と尻尾に猫手猫足を装着したコスプレのような、「都合のいい」姿に変えられるとは考えにくい。
「んなーぁ、」
「何だよ、ちゃんと喋れよ、」
「ぅなん」
「そうじゃなくて」
 華は喋らないし、行動もどこか仔猫っぽい。ふと、「耳と尻尾と猫手猫足」という姿に疑問を持った。脚はスカートだから、すねより上が人間の脚だというのは見たままだ。けれど、長袖のシャツを着てブレザーを羽織った上半身は?さっきから華は上機嫌に喉を鳴らしているし、鳴き声は人間の鳴き真似ではなく猫そのもの、舌もざらざらしていて、表面からは見えない部分もかなり猫化しているようだった。
「服の下はどうなってんだ、」
 呟いてから、自分の発言の変態っぽさに頭を抱えた。違う、俺は華を心配してんだ、心の中で言い訳をしてみたが、ますます犯罪者めいただけだ。
「……まあまず、カバンは下ろせ」
 どうにもこうにも「言い訳感」は拭えないまま、膝にまたがったままの華の肩から、リュックのストラップをずり落とした。いつ、どこで、どうして、こんな姿になってしまったのか、手がかりがあるかは分からないが、中に入っている持ち物も見た方がいいだろうか。
「ふぁん、」
 永く愛用しているのだろう、少し毛羽立ったリュックをすべらせると、華が小さく、妙に悩ましげな声で鳴いた。背を少し反らし気味にして頬を染め、しっぽがぴんと立っている。
「…………、」
 まさか、と思いつつも、リュックをそっと床に下ろすと、腰の辺りをゆっくり撫でてみた。
「ぁあん、んなーぁ」
 それどころではなくて今まで気づかなかったが、真っ黒のしっぽの付け根はスカートの下にあるため、ゆらゆらと振ったり、ぴんと立てるたびに、制服の短い襞スカートは思い切りめくれ上がってしまっている。伊佐奈の膝をきゅっとホールドするように挟んでいる太ももは妙に熱い。よせ、やめろ、遠いところでなけなしの自分の良心が何か叫んでいるようだったが、誘惑に負けて、丸めた指の背でさわさわと、仔猫の喉をくすぐってみた。
「なあぁ、あー」
 腰をくねらせた華は、ぺたん、と上半身を前に倒して、伊佐奈の胸にぴたりとくっついた。むにゅ、と立派なおっぱいが間でつぶれる幸せな感触がした。とろんとした半眼で、つやつやした唇を半開きに、じっと見つめてくる。
「春か、」
 どこか呆然としたように、呟きがこぼれ落ちた。そうだ、春だ、嵐に乗ってムラムラが運ばれてくる、あの季節だ。
「ぁん、なん」
 ぺろぺろざりざりと、喉を撫でてもらったお返し、とでも言うように熱く濡れた仔猫の舌が伊佐奈の下あごの辺りを熱心にくすぐった。まさかこんな状態でそこいらをほっつき歩いていたのか、と慌てたが、考えてみれば、春はともかく、こんな姿の猫娘が電車やバスに乗っていれば警察に通報されるか、そうでなくとも駅員あたりには捕獲されて、ここまで来られないだろう。華を発見したのがこの水族館のあのシャチであることを考えると、どうも華が「こう」なってしまったのは、水族館の最寄り駅で降りた後だと思われた。心底ほっとした。
「どうなってんだ、」
 水族館の周辺は海浜公園という名目で、何もない芝生と松のだだっ広い広場と、湾岸から少し離れたところ(どちらかと言えば最寄は隣の駅だ)にショッピングモールがあるだけだ。女子高生が仔猫ちゃんになってしまうようなデンジャラスな地帯などない筈だった。いや、地球上のどこにだってそんな地帯が気軽に存在しては大迷惑だが。

「ふぁぁん、なーあっ」
 人間と鯨と皮膚の継ぎ目の辺り、感触が面白いのか、首筋に顔を埋めて一心不乱に舐めていた華が、少し低い声で鳴いた。盛りのついた雌猫そのものの声だ。唾液で濡れた喉に吐息がかかって、今はそれどころじゃない、今はそれどころじゃない、必死に自分に言い聞かせて、数々の誘惑に耐え忍び、この異常事態について必死に考察をめぐらせていた伊佐奈は、不覚にも、うっ、と鳥肌を立ててうめき声を上げてしまった。もちろん嫌悪ではなく、全く逆の意味だ。
「ぁーん、」
 アプローチが成功したことがわかったのか、嬉しそうに、というには幾分か淫靡すぎる雰囲気で、華は伊佐奈を上目遣いにじっと見つめてくる。
 正直に言えば、とてもムラムラする。
 普段は意地っ張りでなかなか素直にならない、ほぼ一回り歳下の恋人が、膝にまたがって、自分の気を(性的な意味で)惹こうと必死なのだ。ここでムラムラせねば男が廃ると言ってもいいシチュエーションである。だがしかし、
「華、」
「んなーぁ」
「はな、」
「ァアーっ」
 猫だ。
「……よしよし、」
 思わず、イイコだな、と髪を撫でると、ぐるるるる、と大きく喉が鳴った。
 蒼井華だ。女子高生だ。恋人だ。
 だがしかし、猫だ。
 許されるのか。色々と。
「う、ひっ」
 ひっくり返った、おかしな声が出た。誘惑を前にしてぐるぐると考え込む伊佐奈に焦れたのか、華がことさらにむぎゅ、と身体を押し付けてきて、張りのある十代の素敵な尻が下半身を直接刺激したのだ。ふわんと香るシャンプーの安っぽいフローラル、その高校生らしい健全さと、柔らかな巨乳や熱い太もものギャップが、やたらといやらしい。盛りきった仔猫ちゃんの目は、心なしか潤んでいるようにも見えた。
「あ、あー!あー!!ああああああ!!くそっ」
 ばりばりと頭をかきむしった。はあ、と口をついた吐息は、ため息というには熱が篭りすぎていた。
「後で怒っても知らねえからな、」
 膝の上の華の脇の下に両手を入れて、まるで本当の猫を抱き上げるように持ち上げ、そのまま、書類を乱暴に払い落としたデスクの上に座らせた。仔猫ちゃんは嬉しそうに自分から脚を開いて、間に伊佐奈の身体が入るようにした。もしこれが本当に猫だったら大好きな飼い主にしがみつく微笑ましい行動だったかもしれないが、実際には猫耳を生やした女子高生なので、いやらしいというか、つきぬけすぎて安っぽいグラビア雑誌のようだ。