イタリア最大のマフィア、ボンゴレファミリー十代目ボス沢田綱吉は、引退を宣言した。
童顔にもようやく貫禄のつき始めた、四十四歳の春だった。
早すぎる引退に周囲はもちろん止めにかかったが、本人は「三十年もマフィアのボスをやったんだ、もうじゅうぶんじゃないか。生きてるうちに次に譲るよ」と笑うばかりだ。
そもそもボンゴレ]世は、型破りなボスだった。
\世ティモッティオからボンゴレを受け継いだのが弱冠十四歳。T世の直系とは言いながら、十三を数えるまでは平和ボケ国家日本で何も知らずに生まれ育ち、\世門外顧問沢田家光の息子とは思えぬ容姿のひ弱さ、ティモッティオが譲位を表明したときには、本来六人いるべき守護者も、中学校の下級生だという山本武、雨の守護者ただひとりしかいなかった。
ひしめく老獪な狸じじいどもの、懸念、嘲り、反発を吹き飛ばしたのは、ボンゴレ]世を名乗る直前、\世の「小競り合いを鎮めてほしい」という依頼で渡伊し、示して見せた圧倒的な戦闘力だった。ただの御伽噺と思われていたT世さながらの大空の炎を両の拳に宿して見せ、最強のヒットマンが家庭教師についているとはいえ、見出されてたった一年とは到底思えぬと、内外を震撼させたのだ。
問題を起こしたファミリーを完膚なきまでに叩きのめしておきながら、死人は出さず、灰燼と帰した戦場で慈悲深く微笑んで見せれば、多くのものが頭を垂れたという。来歴のドラマチックさとカリスマ性を兼ね備え、若い者を中心に熱狂的に迎え入れられた。
その後、]世として正式にイタリアに移り住み、中小ボヴィーノファミリーから沢田綱吉と同い年の泣き虫ヒットマンのランボを雷の守護者とし、二十歳のとき没落ファミリーに虐待されていたといって引き取ってきた三人の子供の中から六道骸を霧の守護者とし(ただし六道本人は自分を守護者とは認めていない)、]世になって十年目にお前を認めないといって特攻をかけてきた鉄砲玉の少年、獄寺隼人を嵐の守護者とした。
引退を宣言するその日まで、晴の守護者と雲の守護者の椅子は、ついに埋まらなかった。
「……十代目はお強いし、仕事もお出来になる。男盛りで、男のオレから見てもマジシブいです。」
引退しますと宣言したからと言って、はいどうぞと翌日から隠居になれるわけではない。今後は残務整理などをして、XI世にと指名した、ザンザスの息子へのフォローも、表立ってはできないが裏からはザンザスといろいろしているし、表の顔の社長業などは辞めないから、そちらの仕事もある。
窓から庭園を正面に見下ろす城の執務室の、重厚なデスクに向かって、とりあえず普段通り仕事をしていた沢田のところへ、書類を抱えた獄寺隼人がやってくる。二十年間、右腕として秘書として世話になった、とても優秀な青年だ。十歳年下の、三十四歳。
「獄寺くん、うれしいけど、急にどうしたの?あと獄寺くんこそ、ほんとうに格好よく育ったなあと思うよ」
納得いかない、とでかでかと顔に書いてある獄寺に、苦笑しながら返事をする。と、賛辞に素直に赤面する。格好良いし、可愛らしい若者なのだ。う、あ、と聡明な彼らしからず返事もできず、口をぱくぱくさせているのにふっと笑った。
「昨日も発表した通り、社長の方は続けるから、獄寺くんには、秘書としてついてきてもらえたらなあ、と思っているけれど、私はね、自分がこれから第二の人生を謳歌しようと思っているから、獄寺くんに何かやりたいことがあるなら、ちゃんと応援しようとも思っているんだよ」
沢田にとって獄寺は、本当に信頼している、頼りになる右腕だ。沢田には事務仕事を能率的にこなす能力はあまりなくて、獄寺が来るまでの十年間は、山本もランボも書類仕事向きではないし、六道は将来的には期待できそうだったけれど当時はまだまだ子供だし本人には沢田の守護者という気はぜんぜんないし、デスクワークが滞ることこの上なかった。リボーンが一カ月に一度はキレて、ヴァリアーのスクアーロが見るに見かねて手伝いに来てくれていたほどだ。
そんな獄寺に事前にろくに相談もせず、引退すると発表したのだから、愛想を尽かされてもおかしくないところだが、ちゃんと沢田のもとにいてくれる。彼が何を言おうとサポートしたいと思うのは、当然のことだ。
「……オレの、のぞみは、これからもずっと、十代目のおそばで、お役に立つことです。」
書類をデスクの文箱に入れた獄寺は、ぎゅ、と握りこぶしを作り、静かに、けれど力強く、そう、言い切った。
「けど、十代目の、『第二の人生』って、何なんスか、……十代目が、マフィアの仕事を、心から喜んでやっているわけじゃねーって、わかっていました。もしかして、オレたちの期待が、十代目を、縛って、たんスか……」
沢田は、デスクを立つと、そう言って唇を噛みうつむいてしまった獄寺のそばへ行って、そっと握られた拳を両手で包んだ。
「違うよ、獄寺くん。確かに私は、暴力はあまり好きではないし、マフィアらしい搾取も、掟も、あまり行使してはこなかった。でも、ボンゴレ十代目になるということは、自分で選んで、決めたことだ。それは、はっきりと言えることだよ」
こんな一言で、頭のいい獄寺が納得するとも思えなかったが、それでもこれからも共に立ってくれると言うのなら、ずっと伝え続けていけばいい。
「あのね、私、ずっと探していた運命の人と、ようやく会うことができたんだ。私ももう、五十の歳が見えているし、三十年の節目で、ザンザスの息子も大きくなった。これからは、違う道を歩こうって、また、決めることにしたんだよ」
え?と獄寺が、顔を上げたから、沢田はにこりと笑ってみせる。
「私、大好きな人のお婿さんになります。ゆくゆくは、日本へも帰って、彼女の家に入る予定なんだ。へへ、照れるなあ」
「、む、……っ!?」
「あ、えっ、獄寺くん、獄寺くんっ!?」
獄寺隼人は昏倒した。
(中略)
一夜明けて、獄寺が執務室へ朝の挨拶と打ち合わせに赴くと、沢田は新聞を読んでいた。膝にセーラー服の少女を乗せて。
「じゅーだいめっ、おはよう、ございますっ、お、お、おくさま、もっ」
「おはよう、獄寺くん。ほら雲雀さんも、挨拶、」
「……いい朝だね、あとぼくは奥様じゃない」
獄寺は、ぎりぎりと歯軋りした。
「なに、君、嫉妬?もしかして、沢田の膝に座りたいの」
「んなわけねーだろーがっ!!」
見せ付けるように沢田の首に両腕を回した雲雀が、ちら、と流し目でそんなことを言うものだから、思わずむきになって怒鳴ってしまった獄寺だったが、やばい、と思って沢田を窺ってみても、にこにこして二人のやり取りを見ているだけだった。雲雀も、元チンピラの獄寺の恫喝が、まったく堪えていないようだった。
「女の人を膝に乗せて仕事するのって、アメリカの古いドラマみたいですよね。ちょっと楽しいです」
「なにそれ知らない、そんなのあるの」
獄寺の敬愛する沢田綱吉は、そんな色惚けたことを言うようなボスだっただろうか。
沢田から話を聞いてから、獄寺は日本の雲雀家について調べてみた。調べれば調べるほど、良い話の出てこない極道だった。沢田の人を見る目に問題があるとは思わないが、四十四歳にしてはじめて出た浮いた話だ。もしかして、この若いくらいしかとりえのなさそうな娘に、手玉に取られているのでは、と思わなくもないのである。
「獄寺くん、今日の予定なんだけれど、」
ぐるぐると考え始めた獄寺に、沢田から声がかけられ、はっと向き直った。
「ハイ!」
「お昼の前にね、戦闘訓練用のホールに、手の空いてる人を集めてほしいんだ」
「戦闘訓練の?はあ、」
「あのね、雲雀さんのことを知ってもらうには、いちばんいいと、思うんだよ」
獄寺の前で、沢田と、その膝に乗った雲雀とが、視線を交わして、ふふ、と笑った。
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