人間の虹彩を模した二つの小さな、けれど最先端技術の結晶であるカメラが、高い空とちぎれた小さな雲を映した。太陽を遮るものは何もない。膨大な光量に一瞬「視界」が白く灼けたが、ジジ、とかすかな機械音がしたのみで、ヒバリの内部で適正な情報量に修正された。

 腹部に深刻な損傷があった。ヒバリはため息をついて、その仕草をして、自身が置かれた状況を整理した。
 動力系に大きな問題はなかったが、腹部の損傷により発電系統に異常が発生している。体内電池の充電残量はもうわずかで、既に電波の発信も受信も困難な状態だった。

 逃亡中の身であれば居場所を特定されないのは都合が良かったが、インターネットに接続できなければバックアップメモリのアップロードが出来ない。そう考えて、このまま、ここで停止し二度と起動しない、という未来がもっとも可能性の高い結末なのに、バックアップも何もないとおかしくなった。もしもヒバリが人間ならば、こういう思考の動きを「おかしい」というのだろうと判断した。

 ヒバリのバックアップデータなど、ヒバリが機能停止してしまえば、誰にも必要とされない無用の長物だ。ヒバリは、活動を開始してからこのかた、一度も歌ったことのない、歌うために作られたアンドロイド──ボーカロイド、だった。

 高い空には小鳥が舞って日光はさんさんと降り注ぎ、ヒバリのボディの表層を覆っている、高級シリコンの人工皮膚を過剰に温めている。背の下は緑の草が柔らかく生えた丘の中腹だった。人間を模した姿をしていても基本骨格は金属でできているヒバリは人間よりもずっと重く、押し潰された草花の汁の成分が空気中に濃厚に漂っていた。ヒバリには嗅覚はなかったが、大気中の成分解析によって「青い匂い」がしているのだろうという判断はついた。あたりを昆虫が飛ぶ羽音がぶんぶんと響いている。
 鳥も、虫も、ただ生きるために生まれて、あんなに気軽に動き、歌うのに、自分は歌うために作られて、歌うこともなく不用品と謗られ、追われ、ここで廃棄物になるのか、と思った。カメラを切った。

「あのー、大丈夫ですか?」
 寝転がったまま省電モードに入って、聴力、人間で言えば耳という器官にあたる、顔の横の集音機のみを稼動させていたヒバリの頭上から、間延びした大きな声がかかった。人間に声をかけられると、わずかでも電池残量がある限り、強制的に起動させられてしまう。カメラを覆っている、まぶたと呼ばれる部品が畳まれる。メンテナンス不足がたたって起動には二秒ほど必要だった。楽器であるボーカロイドには厳禁のはずの、モーター稼動音が少し大きくなっている。
「具合悪いんですか?」
 そこにいたのは、人間の、男、だった。茶色のぼさぼさの髪に、眼球の大きさ自体が通常と違うのではと思わせるほどの大きな目を何度もしばたかせて、全体的に甘い色彩と、やたら大きな緊張感のない声が、その男をいかにも無能そうに見せていた。しかしそのかわり、害意があるようには見えなかった。ヒバリは、自衛のため起動と共にロックを外していた、衣装の下の隠し武器、トンファーを再び身体に固定した。男が着ている赤いシャツには泥が染みになって付いている。ところどころほつれた色の濃いデニム地のオーバーオールもどうみても作業着だ。手には、何かの蔓で編んだ、大きな籠を抱えている。若い農夫だろうか。もしかしたらアンドロイドというものを知らないのかもしれない。返答に迷う。身体を起こそうとして、ボーカロイドとしてのヒバリの高性能な集音機──耳は、複数の足音を拾った。追っ手だった。この丘の反対側から近づいてくる。立っている人間の男には、丘の向こうからやってくる人間の姿が見えたのだろうか、男はヒバリから目を離して、足音の方へ首を廻らせた。
「すみません、ちょっと、」
 ヒバリには姿は見えなかったが、声には聞き覚えがあった。追っ手に間違いなかった。男は一度だけヒバリに視線を戻してから、何でしょう?と人の良い笑みを浮かべて呼ばれた方へ小走りに向かった。その時何故か、両腕に大事そうに抱えていた籠の中身を、ヒバリの上にぶちまけて行った。
 カメラが一瞬暗くなって、すぐに順応した。陽光を透かす紫の薄片が幾重にも重なっている。それは何百、何千というすみれの花だった。「視界」が紫と緑に覆われ、センサーは濃度の高い精油の成分を捉えた――「すみれの香りをかいだ」。その途端、ヒバリのメモリには確かに存在しないはずの、様々の風景の断片が、優秀な人工知能を搭載したヒバリにも解析できないほどの速度で通り過ぎて行った。けれども、「既視感(デジャ・ヴュ)」という言葉を辞書の字面以外に理解し得ないアンドロイドのヒバリには今自身の身の上に起こったことが理解できず、ただのバグとして処理されたのだった。